2013年05月31日

銀座テアトルシネマ、ゆく。

 良質な映画を銀座のはずれから提供し続けてきて、まるで同館にある(あった)劇場と同じような慎み深さでひっそりと華開いたミニシアター・銀座テアトルシネマ(旧・銀座テアトル西友)が、自らの生を全うしたかのようにひっそりと僕らと別れを告げる。

 銀座でミニシアターというと、まっさきにシャンテシネが思い浮かぶ。あそこで1990年から2000年の間に世界中の映画を見せてもらった。配給力が勝るからだろうか、豪腕のシャンテシネが公開した数々の映画はどれもこれも名だたる名作にのし上がった。しかしテアトル西友の前途は多難だった(ように思う)。なにしろ公開場所が有楽町近くではなく、僕ら映画フリークなどもシャンテシネやみゆき座やスバル座などで映画を一本みて、京橋近くのテアトル西友や歌舞伎座の向こうにあった松竹セントラルなどに遠征するのに骨が折れた。

 ただし日比谷(有楽町)に集中した映画館の喧噪から離れて、穴場的な立ち位置で落ち着いて上質の映画を見られるという雰囲気は悪くはなかった。あの頃のミニシアターに共通で、飲食に関してはひどく冷淡なのでロビーに用意された自動販売機がひどく物足りなかった記憶があった。それとは対照的に心遣いに独特なものが感じられたのは、立ち見客用に通路で腰掛けるためのクッションとか膝掛けを貸してくれたはずだ。僕は最前列中央の定位置を確保するのが常だったのでお世話になった事はなかったが、優しい映画館だなぁと思った。

 まあ、なぜそんな気遣いが必要だったかと言えば、時に大当たりする映画がかかるからだろうが、北野武の「HANA−BI」がペネチアで金獅子賞をとって凱旋興行となった時にはさぞかし混むだろうと心配して30分前に並ぶつもりで到着したらそうでもなくてホッとするとともに残念だった事を妙に覚えている。

 でも僕にとってのテアトルシネマ(テアトル西友)というのは、なんといってもひと夏の恋人を見つけたかのような経験、ウォン・カーウァイの「恋する惑星」との衝撃的な出会いを与えてくれた事につきるような気がする。1995年7月30日(日)、銀座マリオンの映画館(「丸の内ピカデリー1(*)」)でロン・ハワード監督の鳴り物入りの映画「アポロ13」を見た。ちょっと出足が遅れたのと夏休みということもあって立ち見を承知で入った。お立ち見になりますと言われても、一人ならなんとかなるだろうと入ったのだが、そのときは本当に立ち見で、映画館の側面の壁にもたれながら見たが、正直こんなCG優位のドラマを見させられるよりは、リアルタイムでテレビから流れたドキュメントの方が何十倍も感動させられたと白けていた。

 口直しになるかどうか、まったく期待してなかっただけに、カーウァイ監督のドラマの文法を無視したかのような若い男女たちの爽快な恋愛オムニバスにはまってしまった。この夏はこれで決まりでしょ。そう、思ったからこそ、夏休みのなんの予定もなく無為に過ごすことが許されたあの日々に、5回も連続して同じ映画を見て、フェイ・ウォンの透き通った歌声と、彼女の演技ならぬ笑顔を見に通い詰めたのだった。

今はカンヌ映画祭の審査員に収まっている河瀬直美監督がうみだした繊細で淡々と描かれた家族の物語「萌の朱雀」を見たのもここだった。

そしておそらく最後にみたのは2000年4月だと思うがアルモドバルの名作「オール・アバウト・マイ・マザー」だった。これは見終わった時に、名匠アンゲロプロス監督の「こうのとり、たちずさんで」に匹敵するかのような人間たちの物語だなぁと、温かな気分で帰るところだった。同じ狭いエレベーターに乗り合わせた大学生ぐらいの女子数人が不可解な表情で、そのうち一人が「おすぎにだまされたねぇ」と言いつつ、みんながどっと賛同していたのが印象的だった。当時おすぎがこの映画を大絶賛していてテレビでもCMで連呼していたのだった。僕は彼女たちには20年ぐらい早かったのかもしれないなぁと思いつつ、残念ではあるが、映画とはそういうものでもあると思った。もちろん、僕はおすぎの意見に異論はない。これがテアトルシネマが僕に与えてくれた最後の贈り物だったと思えば、どれだけ感謝してもあまりある映画館だった。
ありがとう。

1995年1月16日(月) 「アデルの恋の物語」(銀座テアトル西友)
1995年5月21日(日) 「白い馬」(銀座テアトル西友)
1995年7月30日(日) 「恋する惑星」(銀座テアトル西友)/「アポロ13」(丸の内ピカデリー1(*))
1995年8月6日(日) 「恋する惑星」(銀座テアトル西友)
1995年8月9日(水) 「恋する惑星」(銀座テアトル西友)/「ウォーターワールド」(日本劇場(*))
1995年8月12日(土) 「恋する惑星」(銀座テアトル西友)/「EAST MEETS WEST」(松竹セントラル)
1995年8月16日(水) 「恋する惑星」(銀座テアトル西友)
1995年8月19日(土) 「欲望の翼」(銀座テアトル西友)
1995年9月7日(木) 「8月の約束」(銀座テアトル西友)[ナイトショー]
1996年11月3日(月)「萌の朱雀」(銀座テアトル西友)
1998年10月11日(日) 「アイス・ストーム」(銀座テアトル西友)
1998年7月28日(火) 「ボンベイ」(銀座テアトル西友)
1998年7月12日(日) 「ビヨンド・サイレンス」(銀座テアトル西友)
1998年1月25日(日) 「HANA-BI」(銀座テアトル西友)
1999年3月21日(日) 「ガッジョ・ディーロ」(テアトル西友)/「ガールズナイト」(シネスイッチ銀座)
1999年4月3日(日) 「フェアリーテイル」(銀座テアトル西友)
1999年6月13日(日) 「メイド・イン・ホンコン」(銀座テアトル西友)
1999年8月11日(水) 「スカートの翼ひろげて」(銀座テアトル西友)/「運動靴と赤い金魚」(シネスイッチ銀座)
1999年10月?日 「ウェイクアップ!ネッド」(銀座テアトル西友)/「秘密」(日劇東宝(*))
2000年4月?日 「オール・アバウト・マイ・マザー」(銀座テアトル西友)


(注)本文の*印の上映館は、チャッPさんからの情報に基づいて修正しました。チャッPさん、ありがとうございます。
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2012年08月27日

「館長 庵野秀明 特撮博物館」に行く(その4)

 では、あれを見に行きますか。上階から見おろしているミニチュアセットの事だ。下に降りたら、もう夢の場所は終わりを告げるとばかり思い込んで階段を降りると、もうひと終盤が残されていた。東宝の倉庫を思わせる時代がかった扉から中に入ると、出番を終えて眠りにつく戦車や戦闘機などのミニチュアが雑然と置かれている。モニターでは「大怪獣ラドン」のメイキングシーンが映し出され、サングラスとパナマ帽でおなじみの円谷英二氏が陣頭指揮する姿がちらっと映る。きっと、ここにあるミニチュアの多くは、当時確かに一度は使われたものに違いない。出口にはキングギドラが誇らしげに僕らを送り出してくれた。

 地階では草創期の神様たちが編み出した特撮技術の原点が紹介されていく。山々を背景にトンネル直前で渋滞している車の列が見える。手前から奥に行くほどに車は極端に小さくなっていく。これも二次元芸術である映画ならではトリックだ。実際以上の遠近感を感じるように強調されている。また、CGなどなかった時代に戦闘機をつるしたピアノ線が見えないようにするために、逆転の発想を試みる。セットを上下逆さまにつくり、空と雲を下にして背面飛行の戦闘機が空側に固定されている。それを鏡で反転させた映像を撮影した。

 日本海海戦の際に戦艦や駆逐艦などの航跡を俯瞰のショットで撮るために、寒天をしきつめた太平洋を東宝撮影所の屋外プールに作ったり、キノコ雲を作り出すのに水に絵の具水を一気に入れたところをカメラを逆さにして撮影したりした。これらの手法はもはや古典すぎて、今の世代には子供だましにしか見えないかもしれない。しかし、例えば「大怪獣ラドン」のクライマックスシーンを撮影するために、阿蘇山の噴火を本物の溶鉄を使って大規模セットの山の頂上から流すなんて事は、今や安全面からも予算面からも不可能だろう。CGは映像に迫力を増すための技術というだけでなく、安易な省予算のための方便にもなっている。

 かつては、ウルトラマンのカラータイマーひとつをとってみても専門の電工さんがいた(今もかな?)。あのキラキラと不規則に輝いてみえる工夫はそれこそ手作りで、カラータイマーの中に手ででこぼこに打ち込んだ金属板を電球との間に仕込んでいた。バッテリーボックスはウルトラマンの着ぐるみの脇の部分に隠され、タイマーの点滅は2パターンに切り替えが可能だった。

 さて、夢が終わるときがいよいよ近づいた。短編映画は中盤の山場だった。庵野さんと樋口さんが、特撮の夢を引き継いだ”若手”としての気概を見せてくれた。最後の最後は、やはり真打ちに登場してもらわねばならない。飾りきれなかったフィギュアをまとめてディスプレイした部屋には、ウルトラマンや怪獣たちにまざって仮面ライダーたちも仲間入りして意表を突かれる。この部屋ではモニターが壁にはめこみになって並んでいる。東宝のゴジラを中心とする怪獣たち、大映のガメラを中心とする怪獣たち。昭和ガメラの名場面では、僕ら当時の少年たちを鼓舞した「ガメラマーチ」が流れる。

 そして映画からTVへとうつり、ウルトラマンと個性あふれる怪獣たちの対決シーンがダイジェストで流れる。劣勢をしのいだウルトラマンたちが反撃に繰り出すシーンが〈夢の終着点〉だ。BGMはもちろん「帰ってきたウルトラマン」の、あの勇壮なテーマ曲だ。この曲を聞くだけで僕らは勇気がわいてくる。冬木透さんの曲はどれもみな名曲だった。

 余韻を味わいながら、あの吹き抜けのホールに出てきた。あの上階からみたセットの手前に「巨神兵東京に現れる」のワンシーンを再現した記念撮影コーナーが設けられていて、カップルや親子連れが順番を待っている。短編映画の中で、精巧に作られたあるアパートの一室の窓の遠景に巨神兵が通り過ぎていくシーンがあった。巨神兵の位置に立つことができて、アパートの室内手間から、カメラでアングルを決めて撮影できる。僕はと一人きりなので、何もいないけれどアパートの室内の見事さを楽しむ事にした。

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 夢は終わった。ここには、もう彼ら特撮の達人たちが僕らにみせてくれた〈夢〉は、すでにない。僕らが少年時代に夢見た記憶のかけらが落ちているのみだ。ありがとう。これからもまた、古くて懐かしくて、どこか新しい夢を見せてくれる事を願って…。 
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2012年08月22日

「館長 庵野秀明 特撮博物館」に行く(その3)

 いよいよ、短編映画「巨神兵 東京に現わる」が上映される。これが、今回のクライマックスだろうか。庵野さんがシノプシスを書き、樋口真嗣さんが絵コンテを描き上げ、全編を通して語られる言葉を、あの覆面作家・舞城王太郎が寄稿した。言葉に声を与えるのは「綾波レイ」の声優・林原めぐみだ。舞城が一枚かむきっかけは奈辺にあるのだろうか?世代は樋口さんより下ではないかと思われる。やはり庵野さんの幅広い交際関係によるものか?

 とにかく、松竹が生み出した「大怪獣東京にあらわる」という映画にあやかったタイトルを付けた本短編では、巨神兵が東京、しかも下北か吉祥寺のような風景のどまんなかに現れる。日本の特撮技術の末裔たちは、確かに円谷英二に始まるパイオニアの技術を受け継ぎながら、ぼくらが映画館のシネマスコープで、あるいはブラウン管のテレビ受像器の中に見出した記憶の中のワンシーンに、数十年をかけて培ってきたテクニックを幾重にも上塗りしていく。これに本多猪四郎さんたちの人間ドラマが特撮と交互に描かれていけば、まちがいなく僕がかつてみた特撮映画になるはずだが、それはここで望むべきものではないだろう。

 10分程度の短編映画はあっという間に終わり、次の上映を待つ人たちと入れ替わりに席を立った。これで終わりかな。満腹ではないけれど、結構楽しめたな。などと思ったら、そうではなかった。これが中盤のクライマックス。さらにさらに驚きの特撮博物館は続く。

 庵野さんと樋口さんが「僭越ながら…」という低姿勢で自らの絵コンテやシノプシスを展示している。庵野秀明コーナーでは、かのジブリの代表作「風の谷のナウシカ」で、人間の手で甦った巨神兵が、映画「アラビアのロレンス」さながらに砂丘の上から、巨体をくずおれながら、閃光と化した炎の玉をはなつシーンの手描きの原画が展示されていた。当時のジブリは相当に手が足りなかったのか、自分のような駆け出しを雇ってくれた上に、重要なシーンをまかせてくれたと、庵野さんのコメントが添えられている。なんと原画の枠外には宮崎駿氏の落書きが書き込まれていて、疲れて仮眠中の庵野さんの姿に「おそい!寝てばかりいないで早く仕上げろー!」というきつい一言。笑える…。

 その奥ではモニターの前に人だかりができていて、さきほど観たばかりの短編映画のメイキングが15分ほどにまとめられている。手品の種明かしのように、さまざまなアイディアも盛り込んだ最新の特撮テクニックの仕込みが披露される。ビルの崩落シーンの方式比べに、超高熱で一瞬のうちにとろけるビルの映像作り。「アニメはいいよな。自由に描けばいいんだから」とぼやきながらも、どうやって絵を着くっていこうかと頭を悩ます技術陣の面々は、いずれも楽しそうだ。その楽しさが、観ている僕らにも伝わってきて幸せな気分になった。

 そこから、地階からの吹き抜けになった通路にたどり着く。吹き抜けのホールに組まれたミニチュアセットが上階から俯瞰できる。セットには、あのモスラも破壊した東京タワーがくの字に曲げられていて屹立している。この一角だけはカメラ撮影OKらしく、親子連れやカップル、あるいはマニアが嬉しそうにセットに入り込んでいる。早く下におりてアレを楽しまねばと思いつつも、この俯瞰のイメージをしっかりと記憶に納めたくてなかなかに立ち去りがたい。ベンチに腰掛けて、しばし休憩だ。
posted by アスラン at 13:07| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

「館長 庵野秀明 特撮博物館」に行く(その2)

 入り口をとおって白い壁にはさまれた細い通路を歩いていくと、東京タワーの模型が目に入ってくる。その上方には公開当時の「モスラ」の大ポスターだ。そう、勘違いされやすいが、東京タワーを最初に破壊したのはゴジラではなくてモスラだ。正確にはモスラの幼虫が、はからずも成虫になるためのさなぎを作るためには東京タワーは絶好のやどり木に見えてしまったようだ。

 何はなくとも東宝の、円谷英二らの、日本の特撮の歴史を思い浮かべる上で、東京タワーほどシンボリックな存在はない。東京スカイツリーができてしまった今となっては、東京タワーはしずしずと日本一の座を譲り渡してしまったかのようであるけれども、昭和の戦後日本の象徴として、一身に子供たちの夢を引き受けてきたのが東京タワーだった。どこぞの知事が「嫌いだ」と言ったところで、東京タワーがかつての僕ら子供の「夢」をはぐくんでくれた事はまぎれもない事実なのだ。

 そこから左手に会場がひらけると、数々のフィギュアが、手にとれそうなほど無造作にテーブルの上に載せられて展示されている。かつては世界的なマーケットを形成していたという、日本が誇る特撮陣が生み出した空想科学の産物たち。海底軍艦「轟天号」や、ゴジラを迎え撃つ自衛隊のメーサー砲を搭載した戦闘車両などが楽しい。映画では凶悪そのものだったメカゴジラの着ぐるみも僕らを暖かく迎えてくれる。明らかに父親の方が見たくて息子を連れてきたパターンの親子連れがうようよいる。息子が言う。「メカゴジラだ!でもちょっと形が違うなぁ」。そうだよ、だって1974年に上映された初代のメカゴジラだもの。

 轟天号の他にも「宇宙大戦争」や「地球防衛軍」で使われたロケットや兵器などに見ほれてしまって、なかなか最初の部屋を立ち去りがたくなった。なにしろ時間はたっぷりあるのだ。1つ1つの展示には庵野館長の涙ぐましいコメントが付されていて、大きいと思った轟天号の模型には「本当はもっと大きな縮尺(の模型)が存在したんですが…残念です」のように、なんとも庵野さんらしからぬ素直な感想が吐露されている。

 今やCG全盛となり、手作り感満載のミニチュアや、人が入っていると想像のつく着ぐるみから作られた特撮は見向きもされない時代になった。かつての「世界に誇った技術」も、存在証明ごと消えていこうとしている。ここに集められた〈存在証明〉の数々は、タイトルとともに「個人蔵」と書かれているものがほとんどだ。庵野さんの「残念です」というコメントにこめられた思いが痛いほど伝わってくる。

 例えば次のコーナーでは、ウルトラシリーズの戦闘機の数々を集めてあるのだけれど、ウルトラホーク1号はあるのに2号も3号も見当たらない。シリーズの中でもSF色が強かった「ウルトラセブン」の超兵器すらすべてを展示できないのか。いやいや、「帰ってきたウルトラマン」のマットアローやマットジャイロはあるし、なにより「初代ウルトラマン」のジェットビートルとビートルVTOLなどが揃っているではないか。こんな時代であるのに、これだけのものを集めた庵野さんには内心忸怩たるものがあるはずだ。しかし、一ファンの立場になってみれば、「くやしい」「残念です」という一言がつい口をついてしまうのだろう。

 そうそう、少しばかり先走ってしまった。そうは言っても、あの「飛べ!マイティジャック」のマイティ号のかなり大きな模型が展示されているのには感動してしまった。ウルトラマンやセブンとは違って大人向けの時間帯に放映されたが故に、なかなか本放送を観る事はかなわなかった。だからいまだにストーリーそのものはよくわかっていない。ただ、海底のドッグにあるマイティ号が発進する際のダイナミックな特撮はいまだに忘れられない。あのドッグに停泊するマイティ号は遠近法を極端にして大きく見せたものだ。ドッグに海水が注入され、水面が波立つ。そこからマイティ号は潜水艇としてドッグを離れ、海面から空へと飛び出していく。おそらく、あの宇宙戦艦ヤマトの初回の発信シーンの感動はマイティ号によって先取りされていたとも言える。

 展示には、特撮をささえてきた「すごい人」(庵野)たちのコーナーが用意されている。「すごい人」の掉尾を飾るのは円谷英二をおいていないが、僕がまっさきに感銘を受けたのは成田亨氏のコーナーだ。彼の役割は造形美術だ。言わずと知れたウルトラマン、ウルトラセブンの造形はもちろんのこと、相手役の怪獣や宇宙人の多くを生み出した、掛け値なしに「すごい人」だ。いまだに愛されるケムール人、ガラモン、レッドキング、ゴモラ、キングジョーなどなど。人間に恐怖をもたらす存在でありながら、美しくてどこか懐かしい。一つ一つの意匠に成田さんのセンスがどうしようもなく表れている。

 そんな達人はいまだに存命で、CG全盛・アニメ全盛の世の中に対して厳しい眼差しを向けている。リアリティを追求することが特撮の役割だとするならば、円谷英二をパイオニアとする手作りの「特撮」は、CGなどの最新のデジタル技術に勝てない。しかし特撮には人間のイマジネーションを喚起する役割があったはずだ。そこにはさまざまな人間のアイディアと創意工夫が重なることによって、子供や大人がファンタジーを幻視することができた。いまのように隅から隅までCGで埋め尽くされた映像では、観る者のイマジネーションは奪われたままだ。と、成田さんは厳しく批判する。

 僕は成田さんの言葉の前で直立する。ただただ甘んじて受け止めよう。庵野さんもそうだろう。だが、庵野さんや樋口さんが成田さんたち「すごい人」の理念を受け止めたがゆえに、エヴァが生まれ、平成ガメラが生まれたはずだ。これはデジタルの世界においても、まだまだ人間を信じていいということの証ではないだろうか。先達の言葉は正しく受け止めるとして、僕ら後身は前に進むしかない。さりとて、ここ特撮博物館で、失われる直前の最後の輝きを、みなで見つめるべきだろう。
posted by アスラン at 06:57| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

「館長 庵野秀明 特撮博物館」に行く(2012/8/2)(その1)

 少しなめていた。

 男子体操の内村航平が個人総合で金メダルをとったとニュースで知っていたので、NHKの(ライブでない)ロンドンオリンピックの放送をついつい見てしまったら、なかなか尻が上がらなくなった。それでも一度も降りたことのない駅、一度も行ったことのない美術館で開催される展示に、うまくいけば10時に、最悪でも10時半に着く予定だった。

 チケットは立川駅に出る途中のローソンでLOPPI端末から購入した.ウェブのローソンチケットだと、アドレスや電話番号を入力しなければならないし、クレジット決済は前日に会社の同僚から聞いていたとおり24時間たたないと発券されない。おまけにシステム使用料200円とLOPPI代100円、合わせて300円の手数料をとられる。あやしいなぁ。もしかしたらコンビニのローソンに直接行けば100円だけで済むかもしれないと欲が出た。なにより店の方がトラブルにならなそうだ。それで当日朝にローソンでチケットを購入したのだが、結局300円の手数料をとられるのに変わりはなかった。よってチケット代は1400+300=1700円+外税だ。

 とにかく急がねば。それにしてもどこで乗り換えるんだろう。歩きながら調べようにも最寄り駅が思い出せない。前の日に会社でアクセスをプリントアウトしておけばよかったと後悔する。もちろんケータイから調べればいいのだけれど、スマホと違ってガラケーの自機だと、ちょっとばかり情報が中途半端になる。

 歩きながら「乗り換え案内」サイトから、うろおぼえの「白河清澄」を入力。そんな駅はないってさ。仕方なくケータイでPCサイトの「東京都現代美術館」を検索。アクセスによると…。しまった、「清澄白河」だった。出ないわけだ。大江戸線清澄白河駅下車徒歩13分!駅から13分なんて、都内でどんな立地なんだよ。なんだか、バスでも行けそうだが、あいにくケータイからはたどれない。仕方なく見切り発車で立川から中央線で新宿へ向かう。また大江戸線かぁ…。

 新宿乗り換えの大江戸線にはろくなことがない。乗り換え方が今ひとつ腑に落ちない。例の9だか6のループ状の路線が曲者だ。これから行く清澄白河駅も新宿を起点としてループの一番向こう側に位置する。六本木経由でも逆回りで行っても同じに感じられるが、駅の表示板には六本木経由でないとたどり着けないかのように書かれている。変だな。乗り換え案内の結果を見比べてもどっちが正解か分からない。答えがでないまま2本も乗り過ごした。すごく田舎者になった気分だ。いや、結婚して立川に越した時点で田舎者になっているのだけれど。

 どうやら30分はかかるところにあると知り、あきれて観念した。そんな外れにあるのか。しかも着いてさらに歩いて13分。みんな、わざわざ観に来ているのかしら。前日までの寝不足と仕事疲れで居眠りしながら、平日の大江戸線の空いた車両にゆられ、ようやく清澄白河駅に到着。「A3の出口を左に出て(歩く)」と書かれた案内表示をさっと飲み込んで地上に出た。炎天下の中をひたすら歩く。今日も相変わらず熱中症アラーム日和だ。なんて考えながら歩けど歩けど目的地は見えてこない。しかたなく交番に泣きを入れると、そこを渡って「この道をまっすぐ行きなさい」と、僕の進む方角と直角に折れた道を指し示す。どうやら完全に道を間違えたようだ。帰りに確認したところ、案内表示板では「A3出口を左に折れてすぐに左に曲がる」と書かれていたようだ。とにかくこの時は、気持ちが急いていたので交番のおまわりさんに聞いた「とにかく木場公園まで行ってください」という言葉を頼りに突き進む。「結構ありますよ」と呆れたように言われた。

 確かに延々と歩き続けるも、それらしき公園は影も形もない。その時点で予定の10時も10時半も越えて11時を過ぎていく。しかたなくauケータイのナビを立ち上げて、現在地の地図を表示してみる。あー、これが木場公園だ。間違ってはいないみたいだ。しかし向きがわからんなぁ。太陽は南中してしまったので北がどちらかわからない。素直に金を出してケータイにナビゲートしてもらうか、などと躊躇して立ち止まる。日差しはジリジリと照りつけ、まさにアラーム通りに赤信号が灯ってくる。よし、感を信じて歩いてみよう。歩いて歩いて歩くと、ようやく大きめの公園が見えてきた。ここらへんの地形は真っ平らなので、ここまで近づかないと公園の木々も目に入ってこない。

 木場公園を対面に控えた道にぶつかると、さて東京都現代美術館はどこでしょう?標識には「左折して480m」かぁ。本当に駅から13分で着くのか?道を間違えた事は棚に上げて、どうしても納得できない。本当に?それにしても都会のなかにありながら、上野の森にある数々の美術館とは大違い。僻地にあると言っていい。こんなところに親子連れがゴソッとくるわけがない。彼らは池袋のサンシャインシティで「ウルトラマンフェスティバル」を観に行ってるんだよ、きっと。

 案の定、ようやくたどり着いた東京都現代美術館の周辺は閑散としていて、入り口前のベンチに座っている数人の姿以外、人影が見えない。だだっ広いエントランスに入ると「当日券をお求めの方はこちら」の立て看が出ていて、チケット売り場に行列が出来ていた。10人も満たないささやかな行列。これを待たないために、僕はローソンで300円余分に金を払った事になるんだ。やれやれ。

 それでも並ばずに直接展示会場に向うのは悪い気分ではない。それに混んでない博物館こそ、こちらの願ったとおりの夢のような場所に違いない。その「夢」が今まさに始まろうとしている。

 常設展示手前に特別展示の入り口が二つ。一つは若者向けのファッションの未来を歌い上げた展示。その隣が僕らの目指す特撮博物館だ。正確には、

 館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技

だ。
posted by アスラン at 20:01| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月22日

ペーパーチェイス(1974年)

 HDDレコーダーを買い換えたおかげで、お気に入りの映画、昔見た記憶のある映画、気になっている未読の映画などを片っ端から録画してしまって、今や映画のフォルダーの下に26本近くの映画が貯まっている。見る方も軽快に見ていかねばならない。ツタヤのレンタルで「チャック2ndシーズン」ばかり見ている暇は、おまえにはないぞ〜。

 マイケル・サンデル教授の「白熱教室」が日本でも大ブームになった理由の一つには、「公共哲学」という学問のエッセンスを素人にもわかりやすい〈おもしろさ〉で括っている点にあるのは確かだが、もう一つ見落としてはならないのは、サンデル教授自身の人となりである。従来の居丈高な教授像とは違って、親しみやすく近づきやすい身構えを崩さない点がなにより大きい。

 そんなとき久しぶりに「ペーパー・チェイス」を深夜放送で観た。階段教室に生徒がぎっしりと詰めている冒頭シーンに「ハーバード法科クラス」の字幕がかぶさったときには、思わずどきっとしてしまった。そうか、この映画のモデルもハーバード大学だったか。そして1970年代には、まだハーバードの権威は絶大だったのかと思い知らされる。

 いや、今でもハーバードの権威は相変わらずで、変わっているのはサンデル教授の教室だけって事か。彼の授業だけが、世間に大手を振って公開できるほどに並外れてフレンドリーだという事なのかもしれない。特にハーバード大学でも花形の学科である法学部の教授ならば、この映画のキングスフィールド教授のように揺るぎない自信に満ちて、未熟な生徒への敵意をあからさまにしているのかもしれない。

 いずれにしても、この映画を僕は今回同様に深夜枠で20年ほどまえに観ている。あのときと違うのは、当時は録画する機材などなかったという点だ。そういう意味では、逆に気楽に観ていた。なんとなく夜中に観る映画は何をみても面白いと感じる。とは言え、今回もHDDレコーダーに録りためた映画を観るのは、やはり会社帰りの深夜、あるいは週末に子供を寝かしつけた深夜になるのだから、20年前と状況はさほど変わっていないのか。

 この映画が僕の記憶に残っているのは、奮闘する主人公たち学生にではなく、恋人づきあいのつもりが、教授の娘だとしれて、そのうえ離婚訴訟中で、いま付き合えば不倫になってしまうやっかいな女性が、かのリンゼイ・ワグナーだからだ。今の若い人にはリンゼイ・ワグナーと言ってもわからないだろうが、70年代の人気テレビドラマ「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」のヒロインとして人気を博した女優だ。たぶん「チャーリーズ・エンジェル」は映画でリメイクされて大当たりしたので馴染み深いだろうが、当時の僕が熱中したのは「チャーリーズ」ではなく「ジェミー」の方だった。

 路線としてはどちらもスパイ物で、その延長に近年の「チャック」が配置されるのだと思う。「バイオニック・ジェミー」は一種の改造人間だ。女性でありながらスーパーマンさながらの身体能力を発揮する事ができる。その設定が素晴らしく、ヒロインの容姿も抜群に魅力的だった。1974年公開ということは、TVシリーズ開始の3年前だ。まだ無名の女優だったか。

 「ペーパー・チェイス」は、学生を人間扱いしない教授の鼻をあかしたい認められたいの一心でもがき苦しむ主人公たち学生の姿を描いていく。密かに図書館に忍び込み、本来ならば厳格な閲覧許可が必要な教授の学生時代のノートを持ち出したのがばれて退学になり、それでも教授に思い知らせてやろうと一計を企むストーリーを思い描いた。思い違いだった。図書館に忍び込むところまでは合っていたが、「見つかって退学うんぬん」は僕の妄想だ。誰も退学にはなっていない。ただし、勉強についていけず学生結婚して妻が妊娠した事に耐えきれずに自ら去っていった学生のエピソードはあった。

 一番の山場は、なんとか教授の非人道的な仕打ちを乗り越えて卒業にめどを付け、それ以上にやっかいなリンゼイ・ワグナーとの恋愛も勝ち取り、最後の最後に学内のエレベーターに乗り合わせた教授に感謝の言葉を述べるシーンだ。教授が振り返って主人公の顔をちょっと見て言う。

「君の名前は?」「ハートです。」

 主人公は呆然とやり過ごすしかなかった。教授に気に入られようと努力した日々は全く無意味だったわけで、教授にとっての生徒は目の前に横たわる石ころや瓦礫にすぎなかったのだと、そのとき初めて思い知る。と同時に、自分の若さ故の甘さに気づいて教授の呪縛からも解放される。彼は十分に何事かを成し遂げたのだ。
posted by アスラン at 19:32| 東京 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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