2012年06月22日

ペーパーチェイス(1974年)

 HDDレコーダーを買い換えたおかげで、お気に入りの映画、昔見た記憶のある映画、気になっている未読の映画などを片っ端から録画してしまって、今や映画のフォルダーの下に26本近くの映画が貯まっている。見る方も軽快に見ていかねばならない。ツタヤのレンタルで「チャック2ndシーズン」ばかり見ている暇は、おまえにはないぞ〜。

 マイケル・サンデル教授の「白熱教室」が日本でも大ブームになった理由の一つには、「公共哲学」という学問のエッセンスを素人にもわかりやすい〈おもしろさ〉で括っている点にあるのは確かだが、もう一つ見落としてはならないのは、サンデル教授自身の人となりである。従来の居丈高な教授像とは違って、親しみやすく近づきやすい身構えを崩さない点がなにより大きい。

 そんなとき久しぶりに「ペーパー・チェイス」を深夜放送で観た。階段教室に生徒がぎっしりと詰めている冒頭シーンに「ハーバード法科クラス」の字幕がかぶさったときには、思わずどきっとしてしまった。そうか、この映画のモデルもハーバード大学だったか。そして1970年代には、まだハーバードの権威は絶大だったのかと思い知らされる。

 いや、今でもハーバードの権威は相変わらずで、変わっているのはサンデル教授の教室だけって事か。彼の授業だけが、世間に大手を振って公開できるほどに並外れてフレンドリーだという事なのかもしれない。特にハーバード大学でも花形の学科である法学部の教授ならば、この映画のキングスフィールド教授のように揺るぎない自信に満ちて、未熟な生徒への敵意をあからさまにしているのかもしれない。

 いずれにしても、この映画を僕は今回同様に深夜枠で20年ほどまえに観ている。あのときと違うのは、当時は録画する機材などなかったという点だ。そういう意味では、逆に気楽に観ていた。なんとなく夜中に観る映画は何をみても面白いと感じる。とは言え、今回もHDDレコーダーに録りためた映画を観るのは、やはり会社帰りの深夜、あるいは週末に子供を寝かしつけた深夜になるのだから、20年前と状況はさほど変わっていないのか。

 この映画が僕の記憶に残っているのは、奮闘する主人公たち学生にではなく、恋人づきあいのつもりが、教授の娘だとしれて、そのうえ離婚訴訟中で、いま付き合えば不倫になってしまうやっかいな女性が、かのリンゼイ・ワグナーだからだ。今の若い人にはリンゼイ・ワグナーと言ってもわからないだろうが、70年代の人気テレビドラマ「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」のヒロインとして人気を博した女優だ。たぶん「チャーリーズ・エンジェル」は映画でリメイクされて大当たりしたので馴染み深いだろうが、当時の僕が熱中したのは「チャーリーズ」ではなく「ジェミー」の方だった。

 路線としてはどちらもスパイ物で、その延長に近年の「チャック」が配置されるのだと思う。「バイオニック・ジェミー」は一種の改造人間だ。女性でありながらスーパーマンさながらの身体能力を発揮する事ができる。その設定が素晴らしく、ヒロインの容姿も抜群に魅力的だった。1974年公開ということは、TVシリーズ開始の3年前だ。まだ無名の女優だったか。

 「ペーパー・チェイス」は、学生を人間扱いしない教授の鼻をあかしたい認められたいの一心でもがき苦しむ主人公たち学生の姿を描いていく。密かに図書館に忍び込み、本来ならば厳格な閲覧許可が必要な教授の学生時代のノートを持ち出したのがばれて退学になり、それでも教授に思い知らせてやろうと一計を企むストーリーを思い描いた。思い違いだった。図書館に忍び込むところまでは合っていたが、「見つかって退学うんぬん」は僕の妄想だ。誰も退学にはなっていない。ただし、勉強についていけず学生結婚して妻が妊娠した事に耐えきれずに自ら去っていった学生のエピソードはあった。

 一番の山場は、なんとか教授の非人道的な仕打ちを乗り越えて卒業にめどを付け、それ以上にやっかいなリンゼイ・ワグナーとの恋愛も勝ち取り、最後の最後に学内のエレベーターに乗り合わせた教授に感謝の言葉を述べるシーンだ。教授が振り返って主人公の顔をちょっと見て言う。

「君の名前は?」「ハートです。」

 主人公は呆然とやり過ごすしかなかった。教授に気に入られようと努力した日々は全く無意味だったわけで、教授にとっての生徒は目の前に横たわる石ころや瓦礫にすぎなかったのだと、そのとき初めて思い知る。と同時に、自分の若さ故の甘さに気づいて教授の呪縛からも解放される。彼は十分に何事かを成し遂げたのだ。
posted by アスラン at 19:32| 東京 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月15日

森崎書店の日々(2012/6/8ツタヤでレンタル)

 TSUTAYAの会員証の更新がやってきた。悩む。新作を含めてDVD一枚が無料レンタルできるからだ。何を悩んでいるかというと、無料で借りられるならば日頃借りない新作をぜひ借りようと決めているからだ。ところが、いざ借りようと思っても借りる当てがない。なにしろ映画を見なくなって、はや10年になる。今の映画状況がどうなっているのかわからない。いわば土地勘ならぬ”映画勘”が無くなってしまったのだ。もちろんハリウッド映画のビッグタイトルを選べれば何の苦労もないのだけれど、映画館通いをしていたときからして、大味な大作は夏休みとか正月休みに観る映画がどうしても見つからないときの控えにすぎなかった。無料レンタルなのに、やっぱり手が伸びない。

 やはり安全パイとして邦画をチョイスすることにした。今や洋画が人気で邦画が低迷するといういびつな状況はなくなり、映画の本数を見る限りは邦画は人気を取り戻している。だからといって映画業界が安泰なわけではないだろう。すでに弱小映画館は青息吐息の状態だ。あと十年もすれば、ゆっくりと映画館で映画を観る日々を取り戻せるかと思ったら、そのときは肝心の映画館も映写システムも根こそぎ入れ替わっているという事になりそうだ。

 それはともかくとして、全国でロードショーするような大作ではなく、気楽に観られて心にひっかかりが残るやつがいい。そんな選択肢で選ぶとそれなりに見つかるのだが、やはり失われた10年は大きい。どれが良さそうか、その1本が決められない。悩みに悩んだすえ、この作品を手に取った。本好きの常として原作は読書候補リストに挙げておいてはあるが読んではいない。今回観ておもしろかったら本も読もうという腹づもりだ。いや、面白くなくても原作は面白いのかもしれないと思って、やっぱり読みそうだ。それでもいい。

 主人公の女性・貴子はデザイン学校を卒業してOL勤め。彼氏もいるが、一年半つきあったところで「俺、結婚するから」と言われてばっさりと関係を切られてしまう。自分としては彼氏・彼女の関係だと思っていたのに男の方は単なる遊び相手に考えていた。「結婚する」と宣言しておきながら「別れよう」の一言もなく、「今夜どうする?」とさらなる関係をせまる男も男だが、言い返せない女も女だ。つまりは、そんな「自分に自信が持てない女性」が、この映画のヒロインだ。

 こういう関係が今の若い世代にとってリアルなのか正直わからない。一言で言えば「悪い男」にひっかかっただけだ。貴子がそこから立ち直れない理由も本当のところは理解しにくい。そういう打たれ弱い人間なのだから仕方ない。相手の男に怒りをぶつける事もできずに、身を引くように会社まで辞めてしまう。やれやれ…。

 そこに助け船を出してくれるのが、小さな古書店を経営している叔父だ。叔父の古本屋の二階に間借りさせてもらい、叔父が店を空ける時だけ店番をする。そんな気楽な日常を、貴子の母である姉に頼まれた叔父は貴子に提供する。貴子は叔父の行為に感謝する余裕もない。親戚らしきつきあいもそれほど交わしてこなかったのに、何故今になってと疎ましく思っている。しかも古本屋の二階はほとんどが古本の山で埋もれているのだ。

 やがて、本好きの常連さん、本屋街の中の喫茶店の人びとたちの気心に触れて、本でも読んでみようかなぁという気分になる。それまであまり本を読んでこなかった彼女にとって、傍らの山から無作為に選んだ古本は、彼女の心のぽっかりと空いたすき間をひたひたと埋めていく。

 ただし、本が虐げられ傷ついた心を癒やす特効薬になってくれるわけではない。本の効き目はじわじわと人生の長さと同じぐらいのテンポで効いてくるに過ぎない。長い目で見れば効き目を実感できるかもしれないが、貴子にとって必要なのは、今まさに自分を救ってくれる「何か」なのだ。コインランドリーでの彼氏に抱かれる白昼夢は忘れようとして忘れられない痛みであるとともに、取り戻せるなら取り戻したい救いでもあるのか。

 けっして出来がいい映画ではない。叔父が何に心を痛めて生きてきたのか、それをどう乗り越えてきたのかも最後まで描かれないにも関わらず、姪の貴子のことを「僕の天使なんだ」と言い切るセリフに込められたものを、この映画では何一つ描ききってはいないからだ。そして貴子の方も、どう立ち直っていくのか、そのためにどう自分に向き合っていくのかが、最後までよくわからない。前述したコインランドリーでの妄想シーンは、貴子が自分と向き合う問題の表れではあるがあまり分かりやすくはない。男にもてあそばれたという事に傷ついているだけなのか、本当ならば寄りを戻したいという未練なのか。おそらくは両方なのだと言いたい演出なのだとは思うが、そもそもこの映画には性の問題を本格的に持ち込む切り口がないので、最後まであのシーンだけが浮いたままで終わってしまう。

 僕は神保町という街をよく知っているからあの街にひとかたならぬ思いはあるが、あの本屋街を貴子にとっての”癒しの場”として描く事にはちょっと疑問を感じた。そもそも原作ではどう描かれているのかはわからないが、映画の中のヒロインは〈森崎書店の日々〉でどれだけ本が好きになったのだろう。そんなことも、実のところ映画ではよくわからない。貴子や叔父や神保町という街を描く一方で、同時に本のもつ魅力を描いていく事がもうひとつの大切な主題ではなかったのだろうか。もしそうだとするならば、この映画がそれに成功しているとはいいがたい。
posted by アスラン at 12:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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