2008年10月16日

エクソシスト(1973年)

 僕が小学校の高学年だった頃だろうか。ドクターペッパーという飲み物が売り出される事になった。「ドクターペッパーは違う味♪」と軽快な唄にあわせて商品が紹介されるCMもテレビで盛んに流れ、物見高い僕は非常に関心があったが、滅多にコーラさえ飲ませてもらえないのでなかなか新飲料を買う機会はこなかった。しばらくすると友達の間から「ドクターペッパーはマズい」という言葉が聞かれるようになった。そのたびに「本当にまずいんだろうか」と素直には信じられない気持ちになるのと同時に、少なくとも一度は飲んだ友達がうらやましくて仕方がなかった。それからついつい飲む機会を逃して、初めて飲んだのは中学生になってからだ。

 とってもがっかりした。マズかったからではない。美味しかったからだ。誰がなんと言おうとオイシい。こんなオイシい飲み物を何年も飲んでこなかったのかと思うと、もったいないことをしたなぁと〈がっかり〉したのだ。以来、一部の人には不人気なこの飲み物を見つけると、こっそりと買っては我が家の冷蔵庫にかくまうのだ。

 そして「エクソシスト」は僕にとってのドクターペッパーだった。日本で公開された時に見に行くはずだった映画を、その後ちゃんと見ることになったのはなんと大学生になってからだった。「エクソシスト」は中学校に上がりたてのピカピカの一年生の僕らにとっては最初の大事件だった。たぶん「エマニエル夫人」やブルース・リーの登場に先駆けて、僕らの子供じみた世界に大人を巻き込むようになった最初の事件だと言っていい。

 そのころ同じ小学校から通う仲間は限られていて、まだ新しい友達もできない僕らはつるんで遊ぶ事が多かった。映画館を巡ってチラシ集めをするようになって映画への興味も一段と高まった。やがて、ブルース・リーに熱中する事になる同じ仲間がまず目につけたのが「エクソシスト」だった。僕らがチラシ集めで映画に目覚めだした1973年当時、二つのジャンルが日本を席巻していた。一つは「タワーリング・インフェルノ」「ポセイドン・アドベンチャー」に代表されるパニック物。そしてもう一つが「エクソシスト」を筆頭とするオカルト物だった。

 「オカルト」という耳慣れない言葉を覚えたのは、「オカルト映画」の一群に引きつけられたからだ。「悪魔のはらわた」とか「悪魔のいけにえ」そして「ヘルハウス」など、怪しげでグロテスクな「オカルト映画」に、性の目覚めと同じようなめくるめく感触をおぼえた。と、同時にキワモノでもある映画の演出が話題を呼び、やはりここでも物見高い僕は仲間と「エクソシスト」に行く約束をし、前売り券を購入した。というと聞こえはいいが、要は遊び慣れした友人の誘いを断れなかったのだ。

 その後だ。PTAで「エクソシスト」が議題に取り上げられたらしい。詳しい経緯はわからないが、想像するに僕と同じようにチケットを購入した子供に見に行ってほしくない親が、どうしたらいいか相談したといったところではないだろうか。結論としては、中学生が見るには好ましくない映画と見なされ、見に行かないように子供たちに釘をさすという事になったらしい。

 僕が事前に母親にチケットを買った事を話していたかは記憶にない。PTAの方針を受けて母が僕に確認したのかもしれない。僕がチケットを持っていると知って色めきだった。「行くのをやめなさい」「行かない方がいい」。父まで駆り出されて説得され、「友達と一緒だから」という言い訳も通用しなかった。チケットは母親のパート先の若い従業員に転売されて手元にお金だけが戻ってきた。

 なにが問題だったか。当時としては過激な「悪魔憑き」の演出が好ましくないと見なされたのは確かだが、一番の原因は悪魔に憑かれた少女リーガンが卑猥な言葉を周囲に投げつけ、聖なる象徴である十字架を手に取って性器に何度も突きたてる場面がある事だったようだ。残念ながらまだ〈性の目覚め〉が訪れる直前だった僕には今ひとつピンと来なかったが、とにかく無理にやめさせられた事よりも、一緒にチケットを買った仲間の手前、勝手にチケットを手放すのは気が引けた。結局僕だけでなくチケットを手放した奴が一人、もう一人は兄と同伴で見に行ったのではなかったか。

 そんなゴタゴタに嫌気がさしたせいか、その後にこの映画を観る機会はなかなか訪れなかった。高校に上がってひょんなことから親しくなった友人に家で僕は「エクソシスト」に再会する。それは「チューブラー・ベルズ」という一枚のアルバムでだ。この曲は映画の中で淡々と流れる印象的なメインテーマだが、それが何故彼の家にあるのか不思議だった。しかも、シングル盤ではなくアルバムである事も不思議だった。彼の説明によると、これは前衛音楽の作曲家による一曲で、あの有名なイントロから始まる曲は様々に展開されて延々と続くのだと言う。一番の不思議は、なぜあのキワモノ映画にこのような現代音楽が使われているのかという疑問だった。しかし、彼も映画そのものは観ていなかったし、映画にはそれほど関心がなかったようだ。

 そうしてついにきちんと本作を観る事になったのは、大学に通うになってビデオが一般家庭にも普及して、ようやくレンタルビデオ店の数も増えだして、好きな映画を借りて観る環境が整いだしてからだった。以前から気になっていた「エクソシスト」をようやく最初から通して観る機会が訪れたのだ。そしてドクターペッパー同様、僕は「がっかりした」事は言うまでもない。もっと早くに観ればよかったと。

 冒頭は、メリル神父が異教とキリスト教の関わりを研究するためにイラクの遺跡発掘に携わっている場面から始まる。異教徒が作り出した怪しげな怪獣の像や見慣れぬイコンに、長きにわたる異国での疲れを隠さない老いた神父。そこに悪意が籠められた一陣の風が吹きわたる。何物かが閉ざされた遺跡からよみがえった証だった。重苦しい異国のシーンから、一挙にワシントンに住むある母と娘の幸せそうな家庭へと飛ぶ。女優を生業とする母との生活は、裕福で確かに満ち足りていそうだが、父の姿がない事が娘にこれから訪れる残酷な運命を予感させるようで、静かに恐怖が忍び寄ってくる。

 あの「チューブラー・ベルズ」が、淡々と繰り返す冒頭部分のほんのさわりしか引用されないように、物語も悪魔憑きの衝撃をできるだけ先延ばしして淡々と進む。もしこれが衝撃的な〈悪魔対エクソシスト〉のシーンだけがメインの映画であったなら、淡々とした導入部も悪魔の騒がしい振る舞いとの対比を強調する演出に過ぎず、本作はオカルト映画の一つという地位に甘んじていただろう。

 しかし重要なのは、この作品がどんなにキワモノ的演出を持ち込んでいようとも、エンディングで涙する感動が待ち受けているという点だ。それはメリル神父の悪魔祓いに立ち会う若き迷える神父カラスが、最後の最後に友人の神父によって懺悔を促されながら息を引き取るシーンだ。悪魔の存在を信じない合理的な精神をもちながら、年老いた母一人を生きる苦しみから救ってあげられなかったカラス神父の心の迷いに悪魔がつけ込むところに、母と娘の絆とは別に、もう一組の息子と母の悲しくも残酷な物語がテーマとして描かれているからだ。

 「シックス・センス」でも息子と母の絆の再生が感動的だったが、すでに30年も前に「エクソシスト」で同じテーマが満たされる悲劇として描かれている事に、これから初めて観る人は驚いてもいいだろう。

↓クリックの応援よろしく!
banner_02.gif
人気ブログランキング
posted by アスラン at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/108159159
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。