2009年06月03日

天国から来たチャンピオン(1978年)

 多感な高校生の頃に見た映画が自分のその後の好みを決定づけてしまう。そういうことは言えるのではないだろうか。「フォローミー」や「グッバイガール」に決定的な感銘を受けてしまい、よくはわからないが、人生には耐えがたい哀しみと、それに見合うぐらいの幸せが訪れるのだと思いこんでいた。いや、思いこもうとしていたと言っていい。それにしても、死を迎えることよりも悲しいことが世の中にあるだろうか。そんなものがあるのだと知ったのが、この映画だった。

 ウォーレン・ビーティ扮するジョーは、プロ・アメリカンフットボールのクォーターバッグだ。彼はロードトレーニング中にトンネルで事故に遭遇し、天国の待合所に連れて来られる。でもどうしても自分の死に納得がいかず、担当者に喰ってかかる。責任者(ということは天使か?)が出てきて帳簿を確認すると、あと50年は寿命があることが判明する。担当者が状況から早とちりしてしまったのだ。あわてて体にもどそうとするも、すでに火葬にふされて手遅れだと知る。よくよく考えたら、米国で火葬というのは珍しいんじゃないかな。今となって気づいたが、そんなことより大事なのは、このくすくす笑いを誘う導入部だ。幸せな気分にひたれそうな上質のハートウォーミングコメディの予感がするではないか。

 この状況を打開するには、ジョーに代わりの肉体を提供するしかない。それから、担当者とジョーとで代わりの肉体を探しに世界中を飛び回る。ジョーが欲しいのはクォータバックをこなせる強靱な肉体だ。いろんなスポーツ選手、あるいはサーカスの綱渡りなどを見てまわり、気にくわなければ次の候補へと瞬間移動する。可笑しいのは、二人が姿を消したとたんに、綱渡りの芸人は落下するし他の候補もなにかしら事故に遭う。そう、ジョーの代わりの肉体は、今まさに寿命がつきようとする人間から選ぶのが決まりなのだ。その不条理さがなんとも言えず笑える。

 ジョーはある富豪のもとに案内される。彼の妻は遺産を狙って夫を殺そうとしている。ジョーは富豪の肉体にも満足せず離れようとした矢先に、富豪のもとに陳情にきたひとりの女性ベティに惹かれる。そして彼女の願いを叶えるために一時的に富豪の体を借りる事を決意する。

 庭の外れにある井戸に落として殺したはずなのに元気に姿を現す富豪に、妻は驚きおののく。しかし、なにより可笑しいのは、富豪に乗り移ったジョーには、自分の姿が変わらずに見える点だ。担当者の話では他の人には確かに富豪当人としか映らない。もちろん僕ら観客もジョーの目線を共有している。今ならばSFXを駆使して、外見と中身が二重化していることをいくらでもリアルに表現できるだろうが、この映画では「ええい、面倒だ〜」とばかりに、お手軽なやり方を選択した。だが、お手軽な選択はベストな選択でもあった。口八丁手八丁のビーティがそのまま中身も外見も変わらずに富豪を演じる事で、富豪とベティとの恋愛にもアメフトへの情熱にも、僕らはすんなりと感情移入できるからだ。

 ジョーとベティは互いに惹かれていくが、妻のいる富豪に間借りする限りは結ばれる事はない。かと言って肉体のないジョーには他に選択肢がない。二人の距離感がもどかしい。暗い場所で不安げなベティの手を取って「心配ないよ」と優しい声を掛けるジョー。そのときに二人の間に確かな結びつきができる。それがエンディングへの伏線でもある。

 自分が活躍したアメフトチームを丸ごと買い取ってオーナーとなったジョーは、自らも選手として参加するが、当然のごとくチームメイトからは総スカンを食う。しかし、恋もアメフトもあきらめないジョーは自らの力でチームの信頼を勝ち取り、チームは優勝へと快進撃を始める。

 そしてついに優勝決定戦の日。ジョーはスタジアムに姿を現さない。間借りの期限が切れてしまったからだ。ところがチームのクォーターバックが試合中のアクシデントで意識を失ってしまう。ジョーの元を訪れる天使の責任者が目配せする。クォーターバックも死すべき定めだったのだ。すかさず立ち上がるのは、もちろんジョーだ。彼は見事にチームを引っ張って、逆転優勝を飾る。なるほど、この体に収まって、ジョーがあらためてベティと恋に落ちればめでたしめでたしだなぁと、すでに思いっきり笑わせてもらい、楽しませてもらった僕ら観客は、そんなハッピーエンディングを思い描いている。

 ところが、試合後のロッカールームでけだるい充実感にひたるジョーの元にやってきた天使の責任者は驚くべき言葉をかける。

「この選手の肉体を選んだのなら、これから君はこの選手として残りの人生を生きる事になる。ただし、君のこれまでの記憶はすべて失われるから、そのつもりで…」

 主人公の戸惑い同様、僕らもいっきに冷水をかけられたような気分に沈んでしまう。記憶を失う事。それは「死」と同義ではないか。それまでいとしいと思ったもののすべてを失ってしまう。本当にそれで「人生を取り戻した」と言えるのだろうか。思わず悲しくなってしまったが、あまりのショックで泣けない。呆然自失とはまさにこのことだろう。

 入れ替わりをただ一人知っている昔からのコーチが声をかけても、もうジョーはジョーではないのだ。とまどうコーチの落胆は僕らの落胆だ。ロッカールームを出ていくジョーと、富豪との思い出をたどりに来たベティとが通路ですれ違う。互いの目の中に何かを感じるが、それがなんなのか分からない。次の瞬間、通路の電灯が落ちてしまう。停電だ。暗闇の中で「心配しないでいいよ」と声をかけるジョー。明かりがつくと、聞き覚えのある一言に我を失ってジョーを見つめるベティがいた。記憶の底から何かがわきあがってるのを二人が感じあう一瞬だ。

 なんとももの悲しい。たとえようもなく切ないエンディングだ。そしてまた、例えようもなく心があたたかくなる映画だった。あれほど笑ったのに、最後のエンドロールは涙でにじんでいた。

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posted by アスラン at 12:57| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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