2009年11月12日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(2009年8月X日)

 一連の作品の決定版とも言える〈新劇場版〉三部作のまんなかにあたる「破」が夏に公開され、それに合わせて日本テレビで第一作の「序」が放映された。さらに深夜枠で、かつてはテレビ東京で放映された連続アニメが一挙に放送された。そのとき、連続アニメも撮り溜めして全部見てから「序」にとりかかろうと決めた。

 そして全部見終わった。というより見飛ばしたといった方がいいか。例の第25話、第26話を見て改めて感じたのは、渚カヲルとシンジとの運命的な出会いと残酷な別れを描いた回と、その後のラスト2話の間に存在したはずのギャップがもはや僕の中には存在しなくなっている点だ。当時、最後のシ者であるカヲルの死とともにシリーズは最高潮を迎え、その後の2話で決着をみるはずのストーリーが、監督・庵野秀明によって大きくはぐらかされたために物議を醸したわけだが、今見るとこのエンディングで何が悪いのかと思わざるを得ない。いずれにしても、ラスト2話で完結しなかったと感じたエヴァファンの胸の奥には、長きにわたって亡霊が巣くうこととなった事だけは確かだ。

 亡霊は何度も何度も現れては消え、形を変えては再度姿を現したが、当時のエモーションはもう取り戻す事はできない。それでもやはり、エヴァの亡霊は生き続けているようだ。それが「ヱヴァンゲリヲン」という形で、あるいは「序・破・急」という形で再生した理由だろう。しかも、この亡霊を語り継ごうとしているのは、世代交代した「エヴァに取り憑かれた人々」だ。どうしたって、連続アニメ放映時に熱狂した僕らが見たのと同じ亡霊とは思えない。

 監督・庵野秀明が生み出した「新世紀エヴァンゲリオン」では、鬱屈した少年少女が、終わることのない永遠に引き延ばされた夏を過ごすという、残酷な物語だった。エヴァでは、確かに斬新な新しいSFアニメの可能性を生み出したが、それ以上に永遠に大人になりきる事ができない、いわば大人ごっこをしている登場人物たちの、言って良ければ「人間ドラマ」でもあった。

 そこに何事かドラマがあったとすれば、庵野監督が自らの鬱屈をさらけ出すことで、底抜けに脳天気な明るさと、果てしなく虚無の深みが広がっている心の闇とをあわせもつ少年時代を自伝的に物語に注入できたからに他ならない。それはもう第1話のシンジからして、そうだった。ならば異質な物語の拡大を続けた結果が第23話までであったわけで、第24,第25話のエンディングこそが、監督が描きたかったドラマに違いない。

 新劇場版では、このSFの部分もドラマの部分もひっくるめて、最初の庵野版「エヴァ」を徹底的に細密な技法でトレースしてしまった。描写はとてつもなく正確で美しい仕上がりになったが、肝心のエヴァらしさは抜け落ちてしまった。

 この「ヱヴァ」には、夏の暑さや登場人物の鬱屈がない。
posted by アスラン at 12:45| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画(2000年〜現在) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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