2005年05月31日

1999年7月3日(土) 「ゴールデンボーイ」「交渉人」「あの、夏の日とんでろじいさん」

 東銀座の東劇で「ゴールデンボーイ」(no.69)を観る。

 スティーヴン・キング原作でかなり心理的に怖いサイコサスペンスだ。
主演が「17/セブンティーン」のブラッド・レンフロ。前作に引き続いて生意気で残酷な高校生を演じている。

 歴史を調べているうちにナチスの残虐行為に引き込まれていく高校生が、ある日ナチスの親衛隊だった老人が近くに隠遁している事に気づき、彼を脅迫して人を殺す時の気分を聞き出そうとするが、やがて当時の高揚感をよみがえらせた老人に逆に追い詰められて行く事になる。

 この物語が怖いのは老人が元ナチスだと世間にわかり拘束された後、少年は恐怖から開放されるのではないところだ。人を殺す感覚を知り、その闇の部分を抱えたまま卒業してしまうところが怖い。つまりナチスの残虐性は、一見平和な日常生活の中で平気で飼い慣らすことが可能であり、ネガティブな歴史もこうして継続されていく可能性がある事を巧みに描き出している。

カチンコ
 まだこの時期は韓国映画が本当に珍しかった。今の韓流ブームの源流は「八月のクリスマス」だと言っていいだろう。ただし今流行のテレビドラマとは違って、ホ・ジノ監督の映画にあざとい演出は一切ない。

 昼食は有楽町に徒歩で戻る途中の竹葉亭でうな重と肝吸い。今年の初物だ。

 丸の内ルーブルで「交渉人」(no.68)を観る。

 サミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーのくせ者どうしが共演交渉人という聞き慣れない言葉だが、それだけに非常にマニアックな映画を予感させる。

 人質をとった犯人に対して無事人質を開放させ自首を促す専門の警察官を交渉人という。サミュエルが汚職の汚名を着せられたために最後の手段として人質をとって立てこもる。ケビンとの熾烈な頭脳合戦が面白い。

 交渉は相手の事をいかに理解して先読みするかにかかっている。日本の刑事もののような情に訴えた交渉はかえって逆効果。まるでディベートをみているようでプロ対プロの話術合戦が楽しい。

カチンコ
ちょうどいま「交渉人 真下正義」が公開されているが、この当時は「交渉人」というのがまだ聞き慣れなかった。

 さらにシャンゼリゼで「あの、夏の日とんでろじいさん」(no.67)を観る。

 大林宣彦監督の新・尾道三部作の完結編だ。「ふたり」「あした」と情感を湛えた完成度の高い作品を続けて撮ってきたので三作目も同様の系列の作品を期待していたのだが、期待を大きくはずれた作品となった。

 今回は尾道市制百周年記念映画と謳っているように尾道を舞台にしただけでなく尾道で暮らす人々の過去・現在・未来に焦点を当てたノスタルチックなファンタジーとなっている。大林節が随所に出た楽しいと同時にどこかそらぞらしい映画だ。

 というのも少年が時を超えて老人の子供時代に遭遇する事で、二人の心が通じ合うだけならまだしも、戦前の豊かだった日本の姿を一挙に現在へと短絡させてしまう。普遍的な純朴さを未来への財産にしていこうとする作家の意図が感じられるのだが、それがあまりうまくいっているとは思えないからだ。

 しかも今回は大林の悪い癖であるオールスターキャストによるカメオ出演が復活していて、ちょい役にまで顔で笑わせるような役者を使っていて彼のサービス精神が裏目に出てしまっている。これについては少し説明がいるかもしれない。

 そもそもエキストラとはなんだろう。それは登場人物に物語のフォーカスをあてるべく、それ以外の物語に無関係な人々には背景におさまってもらうためのエキストラであるはずだ。ということは素人もしくは名の通っていない無名の役者が割り当てられるのが一般的だ。

 しかし時にサービス精神旺盛な監督の中には、ちょい役に名の通った役者を振り当てて遊び心を満たす人がいる。大林もその一人で、かつての角川映画では一時期頻繁にやっていた。しかしコメディならいざ知らず、この手のやり口はメインのドラマを台無しにしかねないつまらない小細工だ。
posted by アスラン at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 大いなる遡行(1999年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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