2005年09月24日

「がんばっていきまっしょい」あるいはなっちゃんの「坊ちゃん」

 ちょうどテレビドラマ化されているので、当時の映画評に少し付け加えてみたい。

 すっかり忘れていたが映画評に書いたように、結構いい映画、いい物語なのに公開時は全然扱いがよくなかった。当時は映画を観るとよっぽど気にくわない映画以外はパンフレットを買っていたので、用意されてないとがっかりする。特に「がんばっていきまっしょい」のように出来がいいのに冷遇されていたりすると、本当に残念だ。

 松山の「坊ちゃん文学賞」受賞作でしかも松山の高校が舞台というローカル色が災いしたのだろうか。とりあえず短期間でも劇場公開して箔をつけておいてビデオで元を取るというのは外国映画では珍しくないのだが、ときどき邦画でもその憂き目にあうものがある。

 いわば埋もれてしまった物語が掘り起こされて今回のテレビドラマ化に至ったのはうれしいのだが、映画とまったく同じ情感を期待すると裏切られるだろう。

 不器用で何事も中途半端で、だけど頑固で意地っ張り

そんなヒロインの少女の人物像は、映画も原作の小説もそしてテレビでも同じなのだが、そこからどのように人間を立ち上げるか、どう物語を演出するかで全然違ったドラマが生まれる。

 そもそも「女の子」は何もせんでもいいと、投げつけるように言い放つ頑固な父の性格をもっとも受け継いだ次女は、鬱々として退屈な高校生活に入学当初から嫌気がさしてる。
 優等生で父の自慢でもあるお姉ちゃんと比較されるのもイヤなら、父の言う通りおとなしくしているのもイヤ。でも、自分に何ができると自問する毎日。

 ある日夕日に映えた男子ボート部の雄姿を見て、「美しいなぁ、自分もやりたいなぁ」と思いこんだところから、物語は始まる。

 そこからの彼女の奮闘ぶりはものすごい。女子ボート部はなく部員も集まらない。コーチもいなければ海岸ぺりにある部室の汚さったらない。ようやく集めた部員は自分同様頼りないし、ボートも男子部員の力を借りないと持ち上がらない。そんなダメダメのところから、彼女たちはきまじめに一歩一歩と進んでいく。

 最初の大会でボロボロになって、なお「このままじゃ終われんよ」とチーム一(いや新入生一)の美少女が言い出すシーンが前半の山場だ。

 映画は一貫して原作の雰囲気をたたえつつ、何かをやりとげようとしたあの頃の少女たちの美しさを淡々と追っていく。それに比べるとテレビドラマのヒロイン(鈴木杏)は勝手な思いこみでつっぱしり、家族にもボート仲間にも男子部員に対してもただ迷惑をかけるだけの少女として描かれている。

 これはいわば「ウォーターボーイズ」女子版のような描き方で、青春モノ、学園モノに出てくる少年・少女は未熟で当たり前という前提でお話が成立しているような気がする。それを一概に悪いとはいえない。テレビでやるにはそれなりのわかりやすさ、いい意味でのあざとさが必要なのはもちろんだからだ。

 要は映画とは違う、原作とも違うと言いたいだけだ。(まあ、ホントはそれだけじゃないが…)

 後半の山は、ヒロインの少女が腰を痛めてボートをやめようかと悩むいたいたしさだ。
実は、ここからの映画はラストまでもうとにかく「美しい」。ひたすらボートに自分の高校生活を賭けたい、いや「命」だって賭けてもいいという少女の切実な気持ちが本当に切なく、だから美しいのだ。

 この切なさは、ひとつには「父への反感=認められたい、ちっとは認めてほしい」という少女の気持ちの描き方とも関連がある。つまり映画では最後の最後にならないと次女のけなげさを見てやろうともしない頑固な父と娘との慎ましやかな和解のドラマがうまく塩梅されているのだ。

 テレビドラマの大杉漣演じる父は、その点陰で心配しておもてでぶっきらぼうという分かりやすい人物に描かれているから映画のような切ない情感には至らないが、これはこれで微笑ましい

 実は映画を見てから原作に手を出したのだが、ちょっと意外な読後感をもった。

 この映画の後半で、田中麗奈扮するヒロインがなんとかぎっくり腰から回復して(完治まではいかない)、県大会に仲間と出場する。ここで流れる曲(リーチェ「オギヨディオラ」。あの癒し系オムニバス「feel2」に収録)とスローモーションを多用した湖でのボートシーンは圧巻なのだが、原作ではさらっと描かれる。そして女子ボート部と彼女のその後が描かれて、淡々として物語は終わる。あえて青春モノにありがちな感動的な結末を避けたという感じがしたが、盛り上がりに欠けた終わり方であった事も確かだ。

 ただ著者が伝えたかった「若き日々の輝き」は確かに原作に一貫して流れていたし、綿々と後輩に受け継がれていく伝統の気恥ずかしさと誇らしさが、青春物語の面目を施しているという気がした。

 もうちょっと言ってみたい。映画がよかったので少々肩入れが過ぎるのかもしれない。

 たとえば漱石の「坊ちゃん」の映画やドラマを見たときと原作を読んだときの違和感と似ている。
ドラマでは「坊ちゃん」はおっちょこちょいだがすごく勇ましい真っ正直な男に描かれる。しかも大抵は青春スターが演じる事が多いので、熱血漢が暴れ回ったあげく生徒からはやけに好かれて、最後には帰京する船を生徒全員が見送るというシーンが一般的だ。

 しかし原作の「坊ちゃん」のエンディングはドラマのそれとは違ってひどく寂しい。赤シャツに手玉に取られたあげくに鬱憤を晴らしたのはいいが、その後意気投合した山嵐とは東京駅で別れたきり。学士でまがいなりにも「坊ちゃん」であった彼は、その後東京で街鉄の技士(今でいう都電の運転手)になる。あんなに溺愛してくれた清も亡くなってしまい、一緒に暮らすという彼女の願いも叶えられない。

 実は小説「坊っちゃん」を支えているのは爽快さと対をなすこの寂しさと言っていい。そしてまさに小説「がんばっていきまっしょい」にもそれと同じような寂しさが描かれる。

 過ぎ去っていったもの、失ってしまったもの、あの「輝ける日々」に置き去りにしてしまったものが淡々としたエンディングに封じ込められる。そしてそれが著者が選んだ、小説としてふさわしい終わり方なのだろう。

 そうか!

 あの映画で田中麗奈が部室に貼られた「女子ボート部」のかつての写真を見つけるシーン。あれこそが原作を書いた著者やボートで結ばれた仲間たち先輩や後輩たちへのオマージュだったんだなぁ。
(「カンガルーは荒野を夢見る」2005/08/02記事より転載)
posted by アスラン at 03:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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