2010年01月19日

砂時計(2010年1月18日TV視聴)

 松下奈緒が好きなので、思わず年末の放映を録画してしまった。どちらかというと少女時代を演じた夏帆の方が登場シーンが多いので、少々物足りなかった。青春もののラブストーリーがメインなので致し方ないか。

 原作がコミックスで、それをいわゆる昼メロと言われた時間帯に連ドラとして放映し、さらに映画化にいたる。よくあるパターンだが、すでに回収できるものは回収しつくしたドラマに魅力を与えようとするには、映画ならではの見ごたえのある映像しかない。冒頭から息を呑むほどの美しい田圃のある高台からの風景。風や光、虹、そして海に砂浜。もう、ラブストーリーを演出するお膳立てがそろっていて、なんでもありの舞台設定と言える。

 ただし、昔見た香港映画「ラブソング」のように10年にもわたってすれ違いを続けるラブストーリーに感情移入し続けるためには、ピーター・チャン監督のような演出の力量が必要だ。どうしても年月を耐えたせつなさが感じられない。

 理由はいくつか考えられるのだが、ひとつにはヒロインのかなり身勝手な恋愛のひとりずもうが、周りの人々を振りまわすところに感情移入しきれないという点があるだろう。ただし、それもこれも母が人生に倦んで自殺してしまい、置いてけぼりにあったヒロインが、うけとめきれないほどのトラウマを抱え込んだという設定なのだから、やむを得ないのかもしれない。

 たしかにそうではあるのだが、そこにホラーにも近い演出を持ち込んだのは、監督の大きな過ちだったのではないだろうか?本当に息を呑むくらいに、トラウマにうなされる夏帆の怯えた顔は怖い。こちらまで、いつくるか、いつくるかと、不安を掻き立てられて、肝心のラブストーリーに浸るどころではなくなってしまう。

 その上、冒頭に松下奈緒と相手の青年との、一年を測る巨大砂時計を前にした邂逅の場面で、最初から紆余曲折を超えたハッピーエンドは約束されてしまっている。だから、いかにしてうまくおさまるところにおさまるかという観客の関心事を満足させるには、波瀾万丈とは言わないまでも、かなり観客の胸をわしづかみするようなドラマが不可欠なのだが、それほどエモーショナルな場面も演出もなかったように思う。

 駆け足で見た挙げ句、いきものがかりの「帰りたくなったよ」を聴くためだけに、あるいは松下奈緒の笑顔を見るためだけに、2時間もの映画につきあってしまったのかなぁと、ちょっとだけ残念だった。
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2009年12月24日

ザ・ムーン(2009年12月23日)

 息子の誕生日にポケモンのDVDを借りるついでに借りてきた。ドキュメンタリーのコーナーにさりげなく置かれているので、よっぽどのことがないと借りる人はいないかもしれない。だが、この映画は劇場公開時に「観たいなぁ」と思って忘れていた作品だった。

 「アポロ13」のロン・ハワード監督がプロデュースした作品なので、少なくとも「アポロ13」ぐらいは面白いはずと勝手に期待していた。いや、「アポロ13」を当時立ち見で観た時も、リアルタイムで事故報道をハラハラして見守った世代の僕としては、現実の凄さを伝え切れていない歯がゆさが残った。ドキュメンタリーを超える事は、いかなSFX技術が進歩しても難しいという当たり前の事を実感させた映画だった。

 当然ながら、この「ザ・ムーン」では1969年に現実に起きた〈奇跡〉をもう一度体験できるのだと思ったのだ。しかし、期待したほどには面白くない。本編を見たあとに、付録の予告編を見ると、「月に行った人々はいまだに13人しかいない。月に着陸した人(ムーンウォーカー)は9人しかいない」という魅力的なキャッチコピーが、これまた見事な映像とともに流れる。残念ながら本編では、このコピーがあまり活かされていない。

 ドキュメンタリーでもなく、事実に基づいたフィクションでもない。どちらかというと、NASAが提供した未公開映像をかき集めて、テレビ出演をOKしてくれたアポロの宇宙飛行士たちのユーモアとフィロソフィー溢れる言葉とともにコラージュした。当然ながら隠棲してしまったり宗教的な静けさを求めたりした飛行士たちの言葉は含まれない。

 編集の力で、あの1969年に起った〈奇跡〉が浮かび上がってくるとでも、この映画の監督は安易に考えていたのかもしれないが、どう考えても力不足の演出としか思えない。以前に読んだアンドリュー・スミス「月の記憶」のような、作家自身のとてつもない熱狂的な好奇心が、この映画の作者からは感じられない。
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2009年11月12日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序(2009年8月X日)

 一連の作品の決定版とも言える〈新劇場版〉三部作のまんなかにあたる「破」が夏に公開され、それに合わせて日本テレビで第一作の「序」が放映された。さらに深夜枠で、かつてはテレビ東京で放映された連続アニメが一挙に放送された。そのとき、連続アニメも撮り溜めして全部見てから「序」にとりかかろうと決めた。

 そして全部見終わった。というより見飛ばしたといった方がいいか。例の第25話、第26話を見て改めて感じたのは、渚カヲルとシンジとの運命的な出会いと残酷な別れを描いた回と、その後のラスト2話の間に存在したはずのギャップがもはや僕の中には存在しなくなっている点だ。当時、最後のシ者であるカヲルの死とともにシリーズは最高潮を迎え、その後の2話で決着をみるはずのストーリーが、監督・庵野秀明によって大きくはぐらかされたために物議を醸したわけだが、今見るとこのエンディングで何が悪いのかと思わざるを得ない。いずれにしても、ラスト2話で完結しなかったと感じたエヴァファンの胸の奥には、長きにわたって亡霊が巣くうこととなった事だけは確かだ。

 亡霊は何度も何度も現れては消え、形を変えては再度姿を現したが、当時のエモーションはもう取り戻す事はできない。それでもやはり、エヴァの亡霊は生き続けているようだ。それが「ヱヴァンゲリヲン」という形で、あるいは「序・破・急」という形で再生した理由だろう。しかも、この亡霊を語り継ごうとしているのは、世代交代した「エヴァに取り憑かれた人々」だ。どうしたって、連続アニメ放映時に熱狂した僕らが見たのと同じ亡霊とは思えない。

 監督・庵野秀明が生み出した「新世紀エヴァンゲリオン」では、鬱屈した少年少女が、終わることのない永遠に引き延ばされた夏を過ごすという、残酷な物語だった。エヴァでは、確かに斬新な新しいSFアニメの可能性を生み出したが、それ以上に永遠に大人になりきる事ができない、いわば大人ごっこをしている登場人物たちの、言って良ければ「人間ドラマ」でもあった。

 そこに何事かドラマがあったとすれば、庵野監督が自らの鬱屈をさらけ出すことで、底抜けに脳天気な明るさと、果てしなく虚無の深みが広がっている心の闇とをあわせもつ少年時代を自伝的に物語に注入できたからに他ならない。それはもう第1話のシンジからして、そうだった。ならば異質な物語の拡大を続けた結果が第23話までであったわけで、第24,第25話のエンディングこそが、監督が描きたかったドラマに違いない。

 新劇場版では、このSFの部分もドラマの部分もひっくるめて、最初の庵野版「エヴァ」を徹底的に細密な技法でトレースしてしまった。描写はとてつもなく正確で美しい仕上がりになったが、肝心のエヴァらしさは抜け落ちてしまった。

 この「ヱヴァ」には、夏の暑さや登場人物の鬱屈がない。
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2009年08月16日

アルセウス超克の時空へ(2009年7月23日 (木))

 ポケモンは、ずいぶん息子につきあってテレビで見てきた。過去の映画もレンタルして観た。特に「ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ」は、映画「アビス」を思わせるような深海の遺跡で繰り広げられる冒険に見ごたえがあった。また「ミュウと波導の勇者 ルカリオ」では、主人であるアーロンに裏切られたルカリオが現代に甦る話だが、先は読めているとは言え、時を超えた物語がこれまたよく出来ていた。

 ただし、ポケモンのターゲットが息子のような就学前の幼児から小学生のかなりの学齢まで幅広く対応しているからか、いわゆる「神々の戦い三部作」と言われている一連の作品は、息子には難しく最初は不評だった。ダークライに至ってはホラーめいた存在に息子は今でも見たがらない。親の僕にしても、「神々の戦い」のかなりハードなストーリー展開はいまだによくわかっていない。今回のように、その三部作を踏まえた上で、世界観が持ち越しになっているから、息子だけでなく僕もチンプンカンプン状態だ。

 今回、おそらく「神々の戦い三部作」の世界に、アルセウスの世界が重畳して壮大な連作が完結する事になるのだろう。冒頭からディアルガが、パルキアが、ギラティナが惜しげもなく姿を現し、互いの存在を賭けて争う。「三部作」をじっくり見てきていないので、三匹の反目関係がよく見えていない。息子の方が「反転世界」などと言う用語が口から飛び出すのだから、僕より理解しているのかもしれない。そうこうするうちに、新たなポケモン・アルセウスが登場するが、これが神と呼ばれし3匹のポケモンが赤子にみえるほどに、すべての力を無力化する究極の防御力と攻撃力とを持ち合わせて、人類に向けて天誅を食らわせようとする。

 それは、かつて人間に手を貸して手痛いしっぺ返しをうけ、傷ついた挙げ句に長い眠りについたという因縁があったからだ。アルセウスは、自らが持つ13の力のうちの5つから〈命の宝玉〉を作りだし、信頼した人間ダモンに貸し与えた。ダモンの裏切りにより奪い取られた宝玉をアルセウスに返さない限り、人類の未来はない。パルキアの時を超える力によって、過去へとタイムスリップしたサトシたちは、失われた過去を修復するために活躍する。

 実は、このストーリー展開は、毎度のおなじみの段取りと言える。ちょうど「ルカリオ」の映画と似ている。というよりは、似ていなければ低年齢の幼児たちにも楽しんでもらえる内容にできないという制約があるのだろう。ただし、その類似に対して「またか」と言わせないように、十分なほどに観客の興味をあおってくれる。前半で息子が少々退屈になってしまったのは、学齢の高い子のみならず僕ら大人でさえも楽しめるストーリーに監督がこだわったからだろう。つまり、〈子ども向け〉というジャンルにとらわれないエンターテイメントを目指すスタッフの心意気のあらわれと言っていいかもしれない。

 残り30分のシーンは、親子そろって息をもつけないほどのドラマを見せてくれた。そして、完結編にふさわしく、オールスターキャストがエンディングテーマにあわせて姿を見せるのは感動的だ。テーマ曲にどこか懐かしい歌謡曲のテイストがする歌が流れる。だが、この独特のミニマルミュージックのリズムは誰のアレンジだろう?喉から突いて出そうなほど、聞き覚えがある。エンドクレジットに詞・松本隆、曲・細野春臣と出ていて合点がいった。そうか!松田聖子「ピンクのモーツァルト」のリフレイン部分の記憶とシンクロしたんだ。ボーカルは中川翔子。今回もベストの三位一体だ。
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2009年07月23日

崖の上のポニョ(2009年7月5日(日))

 最近保育園に行くと、携帯のストラップに気づいて「あっ、ポニョだ」と声を掛ける幼児が増えた。もう去年の秋からずっとつけっぱなしだったんだけどな。なにしろ息子を初めてジブリ美術館に連れて行った日に買ったストラップだもの。だけど、この現象は突然でもなんでもない。劇場公開から一年ぶりにDVDが発売になったからだ。

 我が家でもママがコッソリとアマゾンで予約購入した。なんでも注文者が増えれば増えるほど割引率がよくなる買い方を選択したので3800円になったと自慢げだ。理屈はよくわからないが、ほめて欲しそうなので「ママはエラい!」とほめた。

 こう書くと、我が家では息子のために「ポニョ」のDVDを買ったと思われるかもしれないが、実は昨年の夏に家族三人で映画館に足を運んでいる。だから、これは僕ら三人が観るために買ったのだ。

 なぜか最近は宮崎駿作品が公開される度に「本当に面白いか否か」と言う議論があちらこちらでやかましい。どうやら面白いに決まっていると安心して見にくる観客層に対して、かつてのような切れ味はこの巨匠からはとうに失われているのだと、権威をやたら失墜させたがる訳知り顔の連中がことさらに「良くない」と騒ぎ立てるようだ。

 こういう時に僕は「ドクターペッパーの法則」というのを引き合いに出すことにしている。まずい、まずいという世間の評判を真に受けると、自分の好きなモノに出会いそこねて後悔するという法則だ。もちろん僕はドクターペッパーも好きだし、「崖の上のポニョ」も好きだ。少なくとも我が家でも全員がポニョに◎をつけた。だからこそ、DVD発売を楽しみにしてきた。

 もともと映画館で観る映画とは言ってもアニメと実写とでは評価軸が異なる。一律の映画評はできないが、僕は父親の立場からも、映画好きの立場からも、ポニョを評価している。その点で言えば、ポニョはまず親子連れが楽しめる映画だ。その点については過去の宮崎アニメを振り返っても、これほど子供の視点にたった作品はないのではないかと思うくらいだ。

 確かに「となりのトトロ」があるではないかと言う意見はすぐに聞こえてきそうだが、あれは昭和30年代の親たちのレトロな郷愁がなければ、あれほどの国民的作品に化けることはなかったはずだ。「トトロ」は今観てもいつ観ても楽しめる作品だが、それは「親が観ても」というよりは「親が観ると(楽しい)」に支えられている。

 確かに宮崎作品は大人の鑑賞に耐えるアニメであり、「ナウシカ」がヒットして以降、そうであることを要求されつづけた。「もののけ姫」はアニメが実写映画と対等に評価される事を作家自身が望んだ水準の作品であるが、そうであればこそ「壮大なる失敗作」と言っていい。もちろん映画としては、である。

 その後、一度は筆を折るつもりだった宮崎駿が自ら「枯れた」とうそぶいた言葉を撤回した「千と千尋の神隠し」は、自由奔放にアニメーターとしての力量を惜しげもなく出した作品となった。これは日本映画史上空前の大ヒットとなったが、日本映画史に正当に位置付けられる映画でもあった。

 「ハウルの動く城」がどのような経緯で、原作ある童話から宮崎アニメへ形づくられたのかまったく知らないが、いまさら原作の力をかりる事も原作のイメージ通りに描く事も潔くしない巨匠が次に選んだのは「ポニョ」と言う可愛いのか可愛くないのか判然としない魚の女の子だった。この意表を突いたフォルムが発表されてから、どういう内容のものになるのかこれほどよく分からない宮崎アニメも近年めずらしい。

 その得体のしれなさが反映したのか、アニメを観た人の意見が二分される。いや概ね好評だが、「千と千尋」ほどには映画史上を賑わす作品とはならなかった。それでも充分昨年の日本映画の興行収入に貢献したのだけれど。

 実はこんな事をだらだら書きたいわけではない。「ポニョ」は僕にとってはおそらく宮崎アニメで2番目に好きな作品に躍り出た。それだけを言えばいいことだ。一番目は「天空の城ラピュタ」。これがなければ宮崎アニメの本領である動きのある画期的なアニメは世に認められなかったはずだ。「ポニョ」以前の2位は「千と千尋の神隠し」だった。これは映画館で観た後に、その圧倒的なイメージの横溢にため息が出てしまったほどだ。だが、隣の席の女子高生2名が〈圧倒的なイメージ〉をもてあましてしまった様子なのは確かだった。

 そして昨年「ポニョ」と出会った。これは僕の映画人生の中で「かけがえのない宝物」だ。たぶん同じクリエイターとして意識してきたであろう宮崎駿にとっての黒澤明監督が晩年に「夢」を作ったように、「ポニョ」は宮崎駿の「夢」を形にした作品だったように思う。それはまるで短編集のように章立てされ、「夢」のオムニバスのようにキラキラとした独立したお話のように進行する。そして、それはたぶんモチーフの一端を担っている「崖の上に住んでいる宗助」にポニョが会いに行くという漱石作品へのオマージュさえも含まれている。

 淀川さんが映画を観るとき、目で分かる映画が良い映画だと教えてくれた。「ポニョ」は冒頭から豊饒で色遣いが過剰な海の中のシーンから始まる。それは、これから始まるささやかな物語が〈僕のごく私的な想像の世界〉だと作者が告白している事を意味している。あり得ないほど過剰で、宮崎作品にしては精緻さを欠いた描き込みは、それまで捨て去る事がどうしてもできなかった「現実感(リアルさ)への配慮」を捨て去る事の宣言でもあった。だから、ここを読み違えた人たちは必ず、後段の津波の上を女の子の姿になったポニョが走り回るシーンに躓くだろう。

 僕としては何も問題はない。強いて欠点をあげつらうとすれば、ポニョと宗助がママを探しにでかけ、さらにポニョが力尽きて眠りこけてしまってから、最後にポニョが宗助と暮らすことが決まるエンディングのワンシーンまでの間に、作者がどう物語を繋げていくのか、どう絵を動かしていくべきなのかを、おそらく見失ってなんどもなんども考えあぐねた事が透けて見えてしまう点だろうか。事実、NHKで放映されたメーキングのドキュメントで宮崎駿はなんどもエンディングに至るまでの下絵を描き直している。

 それは欠点と言えば欠点だろうが、僕にはオムニバス構成になっているこの作品の単に最後の短編が少々作者の息づかいが聞こえてくるだけで、全体としての楽しさ・すばらしさになんの変わりはないと言いたい。
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2009年07月17日

20世紀少年 第1章 終わりの始まり(日本テレビ特別版)(2009年7月13日(月))

 日本テレビ特別版というのは、当時映画館で「第2章 最後の希望」が上映されるにあたって、特別に未公開部分の映像も加えた上で再編集したバージョンだそうだ。これを出演者の一人である生瀬勝久が案内役となって冒頭で説明してくれた。ただし、日テレはかつて宮部みゆき原作で空前のベストセラーになった「理由」を完全映画化した大林宣彦の同名の映画を、〈日テレバージョン〉と称して放映した前科がある。

 前科というのはオリジナルの良さを損ねるような、変わった演出を導入したからだ。映像に文字を吹き出しのように覆いまくり、元々の長さをざっくりとカットして、たしか寺田農に案内役をつとめさせていた。ここだ。僕が「理由(日テレバージョン)」を引き合いに出そうと思ったのは。お手軽に話を進める時に姿を現す「案内役」。もちろん過去にテレビシリーズには案内役は重要な役目を果たしてきた。ヒッチコック劇場のヒッチコック自身がそうだったし、それに倣って「世にも奇妙な物語」のタモリが、ヒッチコックになりきるかのように自らの笑いの部分を封印して恐怖とおかしみをもたらす演出は見事と言える。

 だが、「理由」で果たした寺田の役目は、第三者の立場から、当事者の視点で描かれていくオリジナル版の「理由」を手際よく端折る事にしかない。そこに「これはオリジナルとは似ても非なるものだ」とか「こんなのは映画じゃない」と映画ファンにつけ込む隙を与えた事は確かだ。今回の「20世紀少年(日テレ特別版)」も同じように端折る目的があったと言えないか。オリジナル版を見ていないからなんとも言えないのだけれど、途中途中で顔を出す案内役のナレーションで、ああ、またしても話はスルスルと先に先に横滑りしていくのだなぁと感じてしまった。

 まあ、それは置いておくにしても、ここまで原作の漫画を意識して作られていると、いったい映画化する意味はどこにあるんだろう、という気にさせられる。原作は、飲み会の帰りに気分が悪くなり途中下車した駅近くの漫画喫茶でかろうじて第1〜4巻までしか読んでいないので、今回の第1章がそれより先に進んでしまったのか、うろ覚えでよく分からない。ただし、登場する役者が原作の登場人物に印象がそっくりに作られているし、さらには動作や立ち姿までそっくりとなると、もうこれは監督のマニアックな自己満足でしかないのではないかと感じてしまった。オッチョを演じる豊川悦司のはずが、振り返って少し上方を見上げる立ち姿も顔つきも、どう考えても漫画のオッチョ以外の何者でもない。これは、ちょっと異常だ。

 心配なのは、当然ながら三部作の第3章が映画化されるときにも、「第2章(日テレバージョン)」なるものが放映されたりしないのかと。とすると、ミーハーな僕のことだ。またしても録画して寝かせて、おもむろに観てしまうのではないだろうか。でもそこに映し出されるのは、またしても原作に登場する主人公たちそのものであって、映画版「20世紀少年」を生きる役者たちではないような気がするのだ。

 さっさと原作を読んでしまえればいいのだが、今度いったいいつ漫画喫茶に立ち寄るヒマが見つかるのか、心許ない。立川図書館で借りられないものか。
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2009年06月30日

少林少女(2008年,日本)(2009年6月28日(日))

 DVDレコーダーに録画してある映画やドラマをどんどん見ないと、次々と来る新しいコンテンツに追いつかない。いつかレンタルビデオで借りてやると、子供の「アンパンマン」や「プリキュア」や「ポケモン」の棚を物色するたびに思案に暮れていた「エヴァンゲリオン・序」もついに地上派で放映されてしまう。借りずに済んだが、昔のテレビシリーズ一挙放映を含めて録画スペースを確保しなければならない。

 映画だけで35時間ぐらいスペースを撮っているので、とにかく見たら消せるヤツを早送りしてでも見てやらねば。そうして「ダヴィンチ・コード」が一丁あがりで、次のねらい目が「少林少女」だ。いきなりオープニングが中国の少林寺本山のようなところから始まって、日本からの修行者・凜(柴崎コウ)が日本に戻るところでタイトルバックが始まるのだが、これがなかなかCGを駆使したせいか、やたらと長いオープニングだ。ここらへんを一気に飛ばそうと思っていた僕としては、ちゃんと見なくてはとなかなか早送りしにくい。そのせいで、子供が風呂から出てきてしまったじゃないか。あとは子供が寝てからだ。

 などと紆余曲折ありながら、なんとか見終わった。あぁ、結構いい加減な出来だなぁ。「踊る大捜査線」の本広克行監督なんだけどなぁ。脚本の問題なんだろうか。ストーリーも中身も、一世を風靡したチャウ・シンチー流のカンフー・エンターテインメントをそのまま日本に移植した、いわば「二匹目のドジョウ」を狙った映画なんだ。それがまずいというわけではもちろんない。昔から「二匹目のドジョウ」タイプの映画は山ほど作られてきたし、その中で面白い映画だってなかったわけじゃない。ただし、やっぱりどこかパクリだけあってB級映画のいかがわしさが漂っているものだ。

 ところが、この映画に関する限り、そういう「いかがわしさ」は感じられない。それはかなり本格的にカンフーアクションをいただいてきているからで、当然ながら演技指導や特撮などは香港の本場のスタッフによるものだろう。それに様々なSFXやCGが取り入れられているのは、もうB級などという言葉が口幅ったいほどの豪華な制作費によるところが大きい。

 そこに柴崎コウという逸材を投入すれば、それなりに見られるエンターテイメントが出来てしまう。だから面白いはずなんだけれど、残念ながら映像はなかなかに凄いが、物語自体はテレビサイズのお手軽さが充満している。

 なんでお師匠を殺しておきながら、最後に和解した仲村トオルは凜たちの試合を応援しに来られるんだよ〜。同じ監督の「スペーストラベラーズ(2000年)」だって、こんないいかげんじゃなかったのに。

 あっ、書き忘れてたけど、実はそれなりに面白かったんだよ、テレビで見ると。やっぱり映画館で観るのとテレビで見るのとでは評価の基準が異なるのは致し方ない。気楽にゴロッと寝転がりながら見る分には、この程度のコメディでも楽しめる。それになんと言っても、柴崎コウ好きだし。
posted by アスラン at 13:02| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画(2000年〜現在) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

ダ・ヴィンチ・コード(2009年6月20日(土))

 ダン・ブラウン原作の「天使と悪魔」が映画化され、再びロバート・ラングトン役にトム・ハンクスが起用されて公開された。それに合わせるように第1作目の「ダ・ヴィンチ・コード」がテレビ放映されたので、さっそくDVDレコーダーに録画しておいた。かといって、すぐに見たくなるというほどの映画でないこともわかっているから、寝かせておいた。

 原作は2度ほど読んで、そのミステリーツアーに参加するかのようなお手軽さはよく分かっている。でも最近古本屋の105円コーナーで「天使と悪魔」上中下3巻で315円という破格のセットを購入して、なんとしてでも映画公開中に読んでしまおうと張り切って読破してしまった。なんといっても映画にあわせて増刷された文庫が書店で平積みされるのを見て、さらには電車の中でOLが明らかに新品を買って読んでいるのを見るにつけ、315円で読み切る事の優越感に浸ろうと、うきうきしながらあっという間に読み切ってしまった。その内容はと言えば、原作では第2作目である「ダ・ヴィンチ・コード」同様のお手軽ミステリーツアーそのものだった。

 この勢いで映画「ダ・ヴィンチ・コード」も観てしまおうとDVDレコーダーを再生した。だけどちょっとだけズルして早送り再生をところどころ駆使しながらの視聴だったのは作り手に申し訳ないところだ。

 ロン・ハワード監督殿。「アポロ13号」と作り上げた手並みは当時、感心はしたけれど、でもこれってドキュメンタリー映画を観た方が何倍も感動できるよなぁと思った事も確かでした。そして「ダ・ヴィンチ・コード」。これって原作読んでない人が楽しめる映画なんだろうか?そんな素朴な疑問が沸いてしまった。原作も見事に二日たらずでフランスとロンドンの名所巡りを強行し、その上で数千年におよぶ歴史ミステリーを一気に解いてしまうところが、さきほどから繰り返し協調している「お手軽な醍醐味」なのだけれど、それを映画ではさらに端折っている。

 端折り方の手際は、さすがに職人ハワードと拍手してもいいんだけれど、それにしても肝心のダ・ヴィンチの謎はなんとなく「そうだったのか」と分かる程度には説明しているとは言え、ルーブル美術館で殺された館長ソニエールが孫娘のソフィーとラングトン教授に残した謎の方は、得体の知れないCGが駆使されて、あたかも「探偵ガリレオ」の頭の中を実体化した数式のイリュージョンが飛び交うように過去と現在を飛び越えたイメージが現実と二重写しになるだけで、あれよあれよと解かれていってしまう。でも、どう考えても映画館で気楽に観ている観客はついていけないような気がする。

 それに、このいきなり名所めぐりしてラングドンやソフィーが考え出すと、かつてのテンプル騎士団や十字軍の光景が再生される映像が、なんともイメージとしては陳腐で興ざめだ。そんなにCGを駆使してしまったならば、もう頭で考える必要などないではないか。原作も確かにお手軽ではあったけれど、映画はさらにその上をいって「怠惰」を観客に無理強いすると言ってもいいのではないか。

 ところで、シリーズ第2作となった「天使と悪魔」についてピーコが語っているのをどこかで読んだが、ラングドン教授をトム・ハンクスというのはミス・キャストだと書いていた。トム・ハンクスだと年寄りくさい。もっとマッチョタイプのはずだと言うのだが、そうだろうか。ホントに原作読んだのかな。僕はハンクスは適役だと思った。ラングドンは冒険的にも女性の事についても臆病なよわっちい探偵だ。そこのユーモラスなところをハンクスはよくおさえていて好感が持てた。
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