2005年09月26日

「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」

 TVドラマの「電車男」が佳境に入ってきた(2005/8/21現在)。毎週念入りに見ているわけでもないのでドラマの出来不出来を言える立場ではないが、僕としては結構面白い方向に原作(あれは原作と言えるのかな?)をもっていったと感心している。

 「がんばっていきまっしょい」の小説・映画・ドラマの比較をしたときも書いたが、メディアのそれぞれの性質が違うのだから、同じものを同じように描いても感動できるとは限らないのだ。たとえばキャスティングひとつとっても、そのドラマの方向性が大きく変わってしまう。

 様々なメディア(映画、舞台、朗読、マンガなど)で様々な「電車男」が描かれたが、僕の見た限りでは「いい男」にヲタクの皮をかぶせるキャスティングが圧倒的だ。つまり原作の秋葉系ヲタクがネット仲間の助言でなんとか見られるファッションや髪型を整えた上で、なお中谷美紀似のエルメスを最後にはゲットできたのには、やっぱり元がそこそこよかったんじゃないの?という勘ぐりと、本当にヲタクそのものではドラマにならないという演出サイドの逃げがあると思う。

 その点、TVドラマの電車男・伊藤敦史は、本人には申し訳ないがヲタク度120%というくらい感じが出ている。彼なしにはこのドラマの成功はなかっただろう。もちろん、彼を起用した上で、エルメス(伊藤美咲)に大きくフォーカスをあてたドラマに再編するという視聴者向けの配慮も忘れない。ここがテレビ局のしたたかさというやつだ。

 それはさておき伊藤敦史とくればなんと言っても、この映画を忘れてはいけない。「鉄塔武蔵野線」である。彼は映画「海猿」でおなじみになり「電車男」でブレイクしたように見えるが、知る人ぞ知る子役からの芸歴をもつ。「とんねるずのみなさんのおかげです」の仮面ノリダーのコーナーでチビノリダーを演じていたのを知る人は多いだろう。しかし電車男・伊藤のヲタク度120%と、何かにひたすら真剣になる一途さ・純情さの原点となっているのは、「鉄塔武蔵野線」の主人公・見晴なのだ。

 小学生最後の夏、見晴は送電線の鉄塔に「武蔵野線72号」というプレートがついているのに気がつく。そしてこれをたどればやがては「武蔵野線1号」プレートがついた鉄塔があるのだろう。そこには何か不思議なエネルギーを生み出す秘密の基地があるのではないか。少年の空想は広がる。やがて日頃弟分にしている年下の暁を引き連れて、二人の鉄塔をたどる冒険の旅が始まる。

 原作は銀林みのる「鉄塔武蔵野線」(新潮文庫)第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作である。著者の銀林みのるは無類の鉄塔オタクで、原作は単なる小説というだけでなく武蔵野線のすべての鉄塔の写真が入り、それぞれ形態別に分類してあったりして楽しい。鉄塔には男型と女型があるとは著者の創見なのだが、映画でも見晴が暁に向かって自慢げに説明するシーンがあって面白い。

 少年たちの冒険には見晴が決めたルールがある。武蔵野線の鉄塔を番号をひとつひとつさかのぼる。たどった証しとして、つぶしておいたビールの王冠を鉄塔の真下に埋めていく。それが少年にとっては冒険そのものであり、ハタ目にはばかばかしくも達成感がある行為なのだ。

 しかしこの冒険は予想以上に大変であることが見ている僕らにも分かってくる。自転車で出た二人を待ち受けていたのは、道なきところを我が物顔に横切っていく送電線と無関係な人を寄せ付けない鉄塔という現実だった。

 ある鉄塔はまわりを高いフェンスで囲われ、ある鉄塔の真下はコンクリートで固められている。広い田んぼの真ん中に鉄塔が立ち、泥だらけになって丈高い稲をかき分ける。挙げ句の果てがゴルフ場の広い敷地内に設置された鉄塔をたどるために、無断進入を試みて係員に追い回されたりする。なんと少年の一途な事だろう。

 武蔵野の田園風景。農家の人影もない夏の日の高い時間帯。ひたすら田んぼを横切る見晴の姿に、おおたか静流の唄「SAJA DREAM」がかぶさる。立ちのぼる陽炎の向こうに幻のような世界が広がっている気がした。忘れていたあの少年の日の熱い思いがこみ上げてくるようなシーンだ。

 やがて二人の冒険は終わる。年下の暁の自転車がパンクし、まだ半分しかたどってないというのに日は落ちてしまった。さらに鉄塔は川をへだてた向こう岸にある。ホームシックにかかった暁を返して見晴は野宿する。

 何故ここまで見晴は鉄塔をたどることに固執するのか?
 何故ビールの王冠を真下に埋めるのか?

 映画では、別居した父との数少ない想い出として、幼い見晴を鉄塔の真下に連れていった父がブーンと聞こえるハム音が鉄塔に秘められたパワーだと教えるシーンが描かれている。母親では埋められない父親への郷愁が、見晴を終着地へと突き動かしている。

 思えば暁と年若いおしゃれな母親との家庭も父親の姿が最後まで見えない。この映画は不在の父親を追い求める少年たちのドラマでもある。1年後の夏に訪れた時、暁の家に人が住む気配がなくなった事が描かれ、不在の父親のテーマがさりげなく強調される。

 4号鉄塔にたどり着く前に鉄塔を管理するパトロールに見晴は保護され、唐突にしかも目的は達成されないまま冒険は終わる。母の実家・長崎で暮らす事になる見晴にとっては永遠の終わりとなるはずだった。しかし1年後見晴の父親が亡くなり葬儀のために上京した彼は、再び4号鉄塔から冒険を再開するのだ。

 1号鉄塔には何があるのか?原作では原子力発電所があるだろうというファンタジーの世界が描かれる。しかも著者の分身である見晴の空想はどんどんエスカレートしていき、暴走を始める。そもそも鉄塔武蔵野線探求というノンフィクションからファンタジーへと方向を急激に変えながら、あくまで少年のひと夏の冒険を少年たちにとって夢のある終わらせ方にしようとする。

 しかし映画では見晴の冒険は単なる夢ではない。すでに中学生になり大人の顔をもった少年が探し求めるのは父の姿だ。亡くなってしまった父はここにはいない。1号鉄塔のある秘密のパワーを送り出す源。そこに父の面影をひたすら求めて見晴は鉄塔の旅を続ける。

 1号鉄塔は、緑深い小高い丘の中の変電所の敷地にあった。しかし今度ばかりはゴルフ場の時のようには忍び込めない。呆然として引き返す見晴はラーメン屋で食事をとる。そして、あぁ、なんということだろう。こんな夢のようなシーンを用意してあるとは…

 いままでほろ苦くせつない少年の旅に寄り添ってきた僕らは、きっとこのシーンで少年と一緒になって夢見るだろう。少年の想いがいっぱい詰まった夢を僕らも一緒になって見るのだ。

 あの少年だった日に帰って。
 あの少女だった日に帰って。

 どんなラストシーンが用意されているかは、ぜひ映画を観て確かめて欲しい。原作しか読んでない方はぜひ映画も観て欲しい。原作は原作として映画はまったく違った感動を用意しているから。
(「カンガルーは荒野を夢見る」2005/08/21記事より転載)
posted by アスラン at 02:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月24日

「がんばっていきまっしょい」あるいはなっちゃんの「坊ちゃん」

 ちょうどテレビドラマ化されているので、当時の映画評に少し付け加えてみたい。

 すっかり忘れていたが映画評に書いたように、結構いい映画、いい物語なのに公開時は全然扱いがよくなかった。当時は映画を観るとよっぽど気にくわない映画以外はパンフレットを買っていたので、用意されてないとがっかりする。特に「がんばっていきまっしょい」のように出来がいいのに冷遇されていたりすると、本当に残念だ。

 松山の「坊ちゃん文学賞」受賞作でしかも松山の高校が舞台というローカル色が災いしたのだろうか。とりあえず短期間でも劇場公開して箔をつけておいてビデオで元を取るというのは外国映画では珍しくないのだが、ときどき邦画でもその憂き目にあうものがある。

 いわば埋もれてしまった物語が掘り起こされて今回のテレビドラマ化に至ったのはうれしいのだが、映画とまったく同じ情感を期待すると裏切られるだろう。

 不器用で何事も中途半端で、だけど頑固で意地っ張り

そんなヒロインの少女の人物像は、映画も原作の小説もそしてテレビでも同じなのだが、そこからどのように人間を立ち上げるか、どう物語を演出するかで全然違ったドラマが生まれる。

 そもそも「女の子」は何もせんでもいいと、投げつけるように言い放つ頑固な父の性格をもっとも受け継いだ次女は、鬱々として退屈な高校生活に入学当初から嫌気がさしてる。
 優等生で父の自慢でもあるお姉ちゃんと比較されるのもイヤなら、父の言う通りおとなしくしているのもイヤ。でも、自分に何ができると自問する毎日。

 ある日夕日に映えた男子ボート部の雄姿を見て、「美しいなぁ、自分もやりたいなぁ」と思いこんだところから、物語は始まる。

 そこからの彼女の奮闘ぶりはものすごい。女子ボート部はなく部員も集まらない。コーチもいなければ海岸ぺりにある部室の汚さったらない。ようやく集めた部員は自分同様頼りないし、ボートも男子部員の力を借りないと持ち上がらない。そんなダメダメのところから、彼女たちはきまじめに一歩一歩と進んでいく。

 最初の大会でボロボロになって、なお「このままじゃ終われんよ」とチーム一(いや新入生一)の美少女が言い出すシーンが前半の山場だ。

 映画は一貫して原作の雰囲気をたたえつつ、何かをやりとげようとしたあの頃の少女たちの美しさを淡々と追っていく。それに比べるとテレビドラマのヒロイン(鈴木杏)は勝手な思いこみでつっぱしり、家族にもボート仲間にも男子部員に対してもただ迷惑をかけるだけの少女として描かれている。

 これはいわば「ウォーターボーイズ」女子版のような描き方で、青春モノ、学園モノに出てくる少年・少女は未熟で当たり前という前提でお話が成立しているような気がする。それを一概に悪いとはいえない。テレビでやるにはそれなりのわかりやすさ、いい意味でのあざとさが必要なのはもちろんだからだ。

 要は映画とは違う、原作とも違うと言いたいだけだ。(まあ、ホントはそれだけじゃないが…)

 後半の山は、ヒロインの少女が腰を痛めてボートをやめようかと悩むいたいたしさだ。
実は、ここからの映画はラストまでもうとにかく「美しい」。ひたすらボートに自分の高校生活を賭けたい、いや「命」だって賭けてもいいという少女の切実な気持ちが本当に切なく、だから美しいのだ。

 この切なさは、ひとつには「父への反感=認められたい、ちっとは認めてほしい」という少女の気持ちの描き方とも関連がある。つまり映画では最後の最後にならないと次女のけなげさを見てやろうともしない頑固な父と娘との慎ましやかな和解のドラマがうまく塩梅されているのだ。

 テレビドラマの大杉漣演じる父は、その点陰で心配しておもてでぶっきらぼうという分かりやすい人物に描かれているから映画のような切ない情感には至らないが、これはこれで微笑ましい

 実は映画を見てから原作に手を出したのだが、ちょっと意外な読後感をもった。

 この映画の後半で、田中麗奈扮するヒロインがなんとかぎっくり腰から回復して(完治まではいかない)、県大会に仲間と出場する。ここで流れる曲(リーチェ「オギヨディオラ」。あの癒し系オムニバス「feel2」に収録)とスローモーションを多用した湖でのボートシーンは圧巻なのだが、原作ではさらっと描かれる。そして女子ボート部と彼女のその後が描かれて、淡々として物語は終わる。あえて青春モノにありがちな感動的な結末を避けたという感じがしたが、盛り上がりに欠けた終わり方であった事も確かだ。

 ただ著者が伝えたかった「若き日々の輝き」は確かに原作に一貫して流れていたし、綿々と後輩に受け継がれていく伝統の気恥ずかしさと誇らしさが、青春物語の面目を施しているという気がした。

 もうちょっと言ってみたい。映画がよかったので少々肩入れが過ぎるのかもしれない。

 たとえば漱石の「坊ちゃん」の映画やドラマを見たときと原作を読んだときの違和感と似ている。
ドラマでは「坊ちゃん」はおっちょこちょいだがすごく勇ましい真っ正直な男に描かれる。しかも大抵は青春スターが演じる事が多いので、熱血漢が暴れ回ったあげく生徒からはやけに好かれて、最後には帰京する船を生徒全員が見送るというシーンが一般的だ。

 しかし原作の「坊ちゃん」のエンディングはドラマのそれとは違ってひどく寂しい。赤シャツに手玉に取られたあげくに鬱憤を晴らしたのはいいが、その後意気投合した山嵐とは東京駅で別れたきり。学士でまがいなりにも「坊ちゃん」であった彼は、その後東京で街鉄の技士(今でいう都電の運転手)になる。あんなに溺愛してくれた清も亡くなってしまい、一緒に暮らすという彼女の願いも叶えられない。

 実は小説「坊っちゃん」を支えているのは爽快さと対をなすこの寂しさと言っていい。そしてまさに小説「がんばっていきまっしょい」にもそれと同じような寂しさが描かれる。

 過ぎ去っていったもの、失ってしまったもの、あの「輝ける日々」に置き去りにしてしまったものが淡々としたエンディングに封じ込められる。そしてそれが著者が選んだ、小説としてふさわしい終わり方なのだろう。

 そうか!

 あの映画で田中麗奈が部室に貼られた「女子ボート部」のかつての写真を見つけるシーン。あれこそが原作を書いた著者やボートで結ばれた仲間たち先輩や後輩たちへのオマージュだったんだなぁ。
(「カンガルーは荒野を夢見る」2005/08/02記事より転載)
posted by アスラン at 03:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月20日

「大いなる遡行」再開の言い訳

 ちょうど3ヶ月前、このサイトを封印しました。4月から始めたサイトでしたが、読書サイト「アスランの読書クロニクル」(以後、「カンガルーは荒野を夢見る」に改名)との掛け持ちで疲れてしまって、じゃあいっそのこと統一しようという事で、こちらの更新をやめたわけです。

 そこらへんの事情は、6月29日の記事を見てもらえば分かると思いますが、3ヶ月経って再び再開することにしました。で、ここからはその言い訳です。

 まず当時はトップページのデザインを少しでもお仕着せとは違った形にしたいと思っていたので、毎日家に帰って夜も更けてからああでもないこうでもないと工夫をしていたと、投稿記事を両方で用意したりして、ほとほと疲れ切ってしまったわけです。まあもっとテイク・イット・イージーでいけばよかったのですが、やりだすとのめり込むのは自分の昔からの性分で止まらなかった。

 で、今はトップページの工夫は一段落して、それよりも記事の充実に重きをおく毎日(おいおい、毎日かよ。仕事はどうした〜)。そこで思ったのは読書と映画の記事を読みたい人には大きなずれがあるということ。どうしても読書記事に重点をおくと映画記事はあまり人気がない。

 しかも登録したランキングサイトでは、「読書」か「映画」か選択しなければならず、3つほど登録したサイトはいずれも「読書」での登録。どうしたって僕の映画の記事は顧みられない。ちょっとフラストレーションがたまってきました。

 しかもしかも、ほおっておいたこちらのサイトですが、わずかながらではあるけれど立ち寄って過去記事をみてくれる人もいるらしい。おまけにもう放棄されたサイトだというのに、トラックバックやコメントを残してくれた人もいるのに、それこそ手つかずで返事もしてない。これはホント残念な事です。同じ映画の趣味の人が顧みてくれたのに…。

 そこで、こちらを復活させようと思いました。これでうまくいくかどうかはやってみないとわかりませんが、とにかく立ち上げます。もし少しでも立ち寄ってくださる人がいればうれしいです。それでは改めてよろしく!
posted by アスラン at 13:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月30日

つもり宣言

映画は映画館で観たいよね。あの大きなスクリーンじゃなきゃ観た気がしないよ。

とか、

大味のハリウッド映画より単館上映のミニシアター系がお気に入り〜。

とか、

映画は役者で観るより監督で観なきゃ。

とか、

名画座の頃が懐かしい。三本立てを背中がギシギシいうチープな座席に収まって観るのさ。

とか、

やっぱり映画のお供はポップコーンにコークで決まり!

とか、とか、とか。

いくら御託並べても映画見に行く暇なくなったらオシマイさ。所詮映画は暇人のためのエンターテイメント。

ならば行った気になりゃいいんじゃない?観た気になりゃいいんだよ。そうだろ?そうさ!
posted by アスラン at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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