2008年10月21日

吸血の群れ(1972年)

 ここで記憶の映画を紹介する場合、必ずしも好きだった映画ばかりとは限らない。おそらく二度と見たくないだろうが、何故か印象が強くテレビで放映されるたびについつい見てしまう部類に入る。たとえば好きでもない曲で、むしろ嫌いな曲なのに、何度も聞いてしまって頭の中をぐるぐるかけめぐったあげく口ずさんでしまう流行歌のようなものだ。

 僕は虫がきらいだ。男の癖にと言われそうだが、生理的に受け付けない。会社の同僚は足の数で好き嫌いが区別されるようで、虫は嫌いだがクモは大丈夫なのだそうだ。僕は蜘蛛は虫以上に嫌いだ。あの綺麗な蝶々でさえ苦手だ。その最たる理由は無表情で僕らのテリトリーを無断で脅かすからだが、もっといやなのは群がるように集まる様子がだめなのだ。一匹二匹であれば、心の扉を閉ざしながら「綺麗だね」とか「おもしろい格好だね」などと余裕で対応できるが、大量の虫がひとところに群れるとゾゾッと総毛立ってしまう。ヒッチコックの「鳥」などを見ると、鳥が異常に群れているのを見ると恐怖感が先に立つ事はあっても、嫌悪感はない。いったい虫と鳥とで何故こうも反応が違うのだろう。

 それでも子供の頃はこんなではなかったはずだ。ありんこの行列が縁側から居間のちゃぶ台に上がってきて大騒ぎしても怖くはなかったし、隣家のおばさんに頼まれて雨上がりにおもてに出しておいたたらいに集まったミミズの大群をつまんでは庭に投げる事もできたし、今では最大の苦手の蜘蛛でさえ、土蜘蛛の巣穴を探しては割り箸でつり上げる遊びに熱中した事も、今から考えると信じられないような思い出だ。

 一番の理由は大人になってから、泥だらけになって、裸足になって、日がな木や土に触れて遊ぶ事がなくなってしまったからだろう。汚れるのがイヤという理由で土や藪から遠ざかると自ずと虫嫌いになってしまう。ところで、僕に虫嫌いのトラウマを植え付けたものがあるとすると、「エクソシスト」と同年に公開された「吸血の群れ」だ。ストーリーはあまりよく覚えていないのだが、とにかくアメリカの田舎町で虫や爬虫類などの類がいっせいに繁殖して人間を襲うというストーリーだった。

 アメリカ合衆国の一部の州の田舎度は日本の田舎の比でなく、すぐにでも人間の生活を飲み込んでしまうような圧倒的な自然と生物に満ちている。そんな中を、僕らからするとキャンプでもなければ泊まらないような場所に住んでいる人々が、忍び寄る蛙や爬虫類の大群におそわれる。ああ、思い出すだけで気持ち悪い。なのに、73年近辺で、この映画は何度も繰り返しテレビで放映された。お手軽だったのだろう。映画館でヒットしたのかは不明だ。「エクソシスト」の回で書いたように、オカルト映画とひとくくりされたジャンルの一本と見なされていたから重宝されたのかもしれない。

 森や川や湖のそばで恐怖にさらされるというシチュエーションは、その後に大ヒットした「13日の金曜日(1980年)」でおなじみになるが、それ以前では何と言っても本作がテレビ放送の常連の座を保っていた(ような気がする)。ちなみにアマゾンで検索してみたがDVD化されてなさそうだ。観たいなぁ。えっ?いやいや、観たくない、観たくない。

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2008年10月16日

エクソシスト(1973年)

 僕が小学校の高学年だった頃だろうか。ドクターペッパーという飲み物が売り出される事になった。「ドクターペッパーは違う味♪」と軽快な唄にあわせて商品が紹介されるCMもテレビで盛んに流れ、物見高い僕は非常に関心があったが、滅多にコーラさえ飲ませてもらえないのでなかなか新飲料を買う機会はこなかった。しばらくすると友達の間から「ドクターペッパーはマズい」という言葉が聞かれるようになった。そのたびに「本当にまずいんだろうか」と素直には信じられない気持ちになるのと同時に、少なくとも一度は飲んだ友達がうらやましくて仕方がなかった。それからついつい飲む機会を逃して、初めて飲んだのは中学生になってからだ。

 とってもがっかりした。マズかったからではない。美味しかったからだ。誰がなんと言おうとオイシい。こんなオイシい飲み物を何年も飲んでこなかったのかと思うと、もったいないことをしたなぁと〈がっかり〉したのだ。以来、一部の人には不人気なこの飲み物を見つけると、こっそりと買っては我が家の冷蔵庫にかくまうのだ。

 そして「エクソシスト」は僕にとってのドクターペッパーだった。日本で公開された時に見に行くはずだった映画を、その後ちゃんと見ることになったのはなんと大学生になってからだった。「エクソシスト」は中学校に上がりたてのピカピカの一年生の僕らにとっては最初の大事件だった。たぶん「エマニエル夫人」やブルース・リーの登場に先駆けて、僕らの子供じみた世界に大人を巻き込むようになった最初の事件だと言っていい。

 そのころ同じ小学校から通う仲間は限られていて、まだ新しい友達もできない僕らはつるんで遊ぶ事が多かった。映画館を巡ってチラシ集めをするようになって映画への興味も一段と高まった。やがて、ブルース・リーに熱中する事になる同じ仲間がまず目につけたのが「エクソシスト」だった。僕らがチラシ集めで映画に目覚めだした1973年当時、二つのジャンルが日本を席巻していた。一つは「タワーリング・インフェルノ」「ポセイドン・アドベンチャー」に代表されるパニック物。そしてもう一つが「エクソシスト」を筆頭とするオカルト物だった。

 「オカルト」という耳慣れない言葉を覚えたのは、「オカルト映画」の一群に引きつけられたからだ。「悪魔のはらわた」とか「悪魔のいけにえ」そして「ヘルハウス」など、怪しげでグロテスクな「オカルト映画」に、性の目覚めと同じようなめくるめく感触をおぼえた。と、同時にキワモノでもある映画の演出が話題を呼び、やはりここでも物見高い僕は仲間と「エクソシスト」に行く約束をし、前売り券を購入した。というと聞こえはいいが、要は遊び慣れした友人の誘いを断れなかったのだ。

 その後だ。PTAで「エクソシスト」が議題に取り上げられたらしい。詳しい経緯はわからないが、想像するに僕と同じようにチケットを購入した子供に見に行ってほしくない親が、どうしたらいいか相談したといったところではないだろうか。結論としては、中学生が見るには好ましくない映画と見なされ、見に行かないように子供たちに釘をさすという事になったらしい。

 僕が事前に母親にチケットを買った事を話していたかは記憶にない。PTAの方針を受けて母が僕に確認したのかもしれない。僕がチケットを持っていると知って色めきだった。「行くのをやめなさい」「行かない方がいい」。父まで駆り出されて説得され、「友達と一緒だから」という言い訳も通用しなかった。チケットは母親のパート先の若い従業員に転売されて手元にお金だけが戻ってきた。

 なにが問題だったか。当時としては過激な「悪魔憑き」の演出が好ましくないと見なされたのは確かだが、一番の原因は悪魔に憑かれた少女リーガンが卑猥な言葉を周囲に投げつけ、聖なる象徴である十字架を手に取って性器に何度も突きたてる場面がある事だったようだ。残念ながらまだ〈性の目覚め〉が訪れる直前だった僕には今ひとつピンと来なかったが、とにかく無理にやめさせられた事よりも、一緒にチケットを買った仲間の手前、勝手にチケットを手放すのは気が引けた。結局僕だけでなくチケットを手放した奴が一人、もう一人は兄と同伴で見に行ったのではなかったか。

 そんなゴタゴタに嫌気がさしたせいか、その後にこの映画を観る機会はなかなか訪れなかった。高校に上がってひょんなことから親しくなった友人に家で僕は「エクソシスト」に再会する。それは「チューブラー・ベルズ」という一枚のアルバムでだ。この曲は映画の中で淡々と流れる印象的なメインテーマだが、それが何故彼の家にあるのか不思議だった。しかも、シングル盤ではなくアルバムである事も不思議だった。彼の説明によると、これは前衛音楽の作曲家による一曲で、あの有名なイントロから始まる曲は様々に展開されて延々と続くのだと言う。一番の不思議は、なぜあのキワモノ映画にこのような現代音楽が使われているのかという疑問だった。しかし、彼も映画そのものは観ていなかったし、映画にはそれほど関心がなかったようだ。

 そうしてついにきちんと本作を観る事になったのは、大学に通うになってビデオが一般家庭にも普及して、ようやくレンタルビデオ店の数も増えだして、好きな映画を借りて観る環境が整いだしてからだった。以前から気になっていた「エクソシスト」をようやく最初から通して観る機会が訪れたのだ。そしてドクターペッパー同様、僕は「がっかりした」事は言うまでもない。もっと早くに観ればよかったと。

 冒頭は、メリル神父が異教とキリスト教の関わりを研究するためにイラクの遺跡発掘に携わっている場面から始まる。異教徒が作り出した怪しげな怪獣の像や見慣れぬイコンに、長きにわたる異国での疲れを隠さない老いた神父。そこに悪意が籠められた一陣の風が吹きわたる。何物かが閉ざされた遺跡からよみがえった証だった。重苦しい異国のシーンから、一挙にワシントンに住むある母と娘の幸せそうな家庭へと飛ぶ。女優を生業とする母との生活は、裕福で確かに満ち足りていそうだが、父の姿がない事が娘にこれから訪れる残酷な運命を予感させるようで、静かに恐怖が忍び寄ってくる。

 あの「チューブラー・ベルズ」が、淡々と繰り返す冒頭部分のほんのさわりしか引用されないように、物語も悪魔憑きの衝撃をできるだけ先延ばしして淡々と進む。もしこれが衝撃的な〈悪魔対エクソシスト〉のシーンだけがメインの映画であったなら、淡々とした導入部も悪魔の騒がしい振る舞いとの対比を強調する演出に過ぎず、本作はオカルト映画の一つという地位に甘んじていただろう。

 しかし重要なのは、この作品がどんなにキワモノ的演出を持ち込んでいようとも、エンディングで涙する感動が待ち受けているという点だ。それはメリル神父の悪魔祓いに立ち会う若き迷える神父カラスが、最後の最後に友人の神父によって懺悔を促されながら息を引き取るシーンだ。悪魔の存在を信じない合理的な精神をもちながら、年老いた母一人を生きる苦しみから救ってあげられなかったカラス神父の心の迷いに悪魔がつけ込むところに、母と娘の絆とは別に、もう一組の息子と母の悲しくも残酷な物語がテーマとして描かれているからだ。

 「シックス・センス」でも息子と母の絆の再生が感動的だったが、すでに30年も前に「エクソシスト」で同じテーマが満たされる悲劇として描かれている事に、これから初めて観る人は驚いてもいいだろう。

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2008年10月08日

暴力脱獄(1967年)

 ポール・ニューマンが亡くなった。80を越える年齢だったし、数年前までは現役で俳優を続けていたのだから、まずまずの映画人生だったのではないか。彼の死は残念だが、十分すぎるくらい素晴らしい演技を見せてもらった。

 彼の出演した作品で思い出に残る映画はたくさんあるが、なにより最初に鮮烈な印象を受けたのが「暴力脱獄」だった。1967年公開だから映画館で見たわけではない。テレビで何度も見た記憶がある。とびきり活きのいいブレイク直前の俳優が主演した話題作だったのかもしれない。まだ若々しかったニューマンは、何物にも屈服しない反骨精神を持つタフでクールな囚人を演じていた。当時の彼は「評決」の頃から見せた枯れた風貌ではなく、ひたすらギラギラとした精悍さに満ちていた。

 田舎町にある監獄では日々社会奉仕のために囚人が道路整備に借り出され、炎天下の中を肉体労働に明け暮れる。休憩の時間に囚人同士の争いが絶えず、誰にも弱みを見せないニューマンは最初のうちは監獄仲間から疎まれる。特に敵役の囚人ジョージ・ケネディと衝突するが、一向に音を上げないいニューマンに根負けして、以後一目置くようになる。

 退屈で辛い監獄生活でも刹那的な生き方を見せつけるかのように、時にたわいもない賭けに乗ってみせる。この映画の山場の一つと記憶しているのは、たくさんのゆで卵を食う賭けのシーンだ。昼食にでたゆで卵を全員が提供して50個食べられたら食べた者の総取りという賭けに、ニューマンは無謀にも挑戦する。ニューマンはマッチョなファイトではなく、ゆで卵をひたすら食べるというバトルで、死にそうになるくらい腹をふくらませても勝ちを譲らない。その強烈なシーンには、あの「ショーシャンクの空に」に先駆けて〈何物にも束縛されない自由な魂〉のテーマが込められていた。

 看守に目をつけられ過酷な労働を迫られるニューマンは何度も脱獄を繰り返し捕らえられ、ついには致命傷を負う。そしてついに看守たちの手に届かない平穏な居場所を勝ち取ったかのように、彼は一切の治療を拒んで死んでいく。

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2008年09月26日

「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」「大魔神」(1966年)

 この夏に息子を映画館に連れていった。3才にして映画デビューだ。この初めての映画体験は彼の記憶に残るのだろうか。アンパンマンの劇場版だし、その後旧作の劇場版もレンタルビデオで借りて見せているので、我が子にとっては、いや、今の子供にとってはなかなか映画館の初体験として記憶に残りにくいかもしれない。

 僕の映画館デビューの事はよ〜く覚えている。「ガメラ対バルゴン」と「大魔神」の二本立てだった。Wikiによると、2作の公開は1966年4g月17日だそうだ。僕のデビューは4才ということになる。それにしては特撮物とは言え、我が子の「アンパンマン」の、言わば〈安心して子供に見せられる映画〉とはあまりに違うなぁと、子を持つ身になって改めて思ってしまう。とは言え、これは僕が親にせがんだのでも、親が連れて行ってくれたのでもない。単なる僥倖だった。

 牛乳屋を経営している親を持つ僕の幼なじみは同い年ということもあって、日頃からよく一緒に遊んでいた。子供心にも彼の家庭が経営者の家らしく生活レベルが違うのははっきりしていた。いちはやく電子レンジやエアコンが据え付けられた。ひな祭りに幼なじみの母親の持ち物である立派なひな壇が広間に飾られて、度肝を抜かれたのも覚えている。

 彼の言う事ならたいていは聞いてもらえたので、そのときも幼なじみが母親にせがんだのだろう。タイミング良く遊びに行ってたのか、前々から二人で行きたいと示し合わせていたのか、とにかく僕も映画のご相伴にあずかる事になったのだ。板橋に住んでた僕らが映画を見るとなると、大山に出向く。その当時の大山銀座は今のような商店街という趣ではなく、もっと繁華街としての要素が強かったように思う。映画館は東映と東宝と日活の3館があった。いずれも東武東上線大山駅の板橋文化会館側にあった。今でこそアーケード側がにぎわっているが、アーケードがなかった当時は映画館でにぎわっている側が娯楽のメッカだったと思う。

 大山東映のスクリーンが一番大きかったと思うが、果たしてそこで見たのか、さすがに記憶がない。この2作は今はなき大映映画の製作だが、当時は東映か日活の映画館で上映されたはずだ。

 「ガメラ対バルゴン」は昭和のガメラシリーズの2作目にあたる。ということはすでに前作「大怪獣ガメラ」が前年に公開され、ガメラの何たるかは知っていたはずで、ひょっとしたらテレビで放映されていたかもしれない。さすがに公開一年たつかたたないかではやってないか。後にも先にも昭和ガメラを映画館で見たのはこの時限りなのだが、その後テレビでは繰り返し放映されたので、第1作を先に見たのか後に見たのかは分からない。とにかく本作の印象を一言で言うなら「気持ち悪い」だ。何しろ卵から孵る「バルゴン」の体はヌメヌメした粘液につつまれている。まさに爬虫類そのものだった。そしてガメラときたら、当然ながら亀なので、傷つくと傷口から緑の血がドクドクと流れ出す。こちらの演出も非常に気色悪い。

 バルゴンはヌメっとして気持ち悪い上に、背中(しっぽ?)から虹色の光線を出す。そのサイケデリックな画面が、またなんとも悪趣味であった。この時のイメージが強いからか、ライバルのゴジラが爽やかなヒーローへと変身していくのとは逆に、その後のガメラシリーズは得体の知れない異様な魅力を保ち続けたような気がする。この気持ち悪さは幼なじみも耐え難かったようで、半泣きの状態で今にも席を立ちそうだった。それでもガメラがバルゴンを退治して休憩に入って一段落したと思ったら、続いて「大魔神」が上映されると、ついに幼なじみはギブアップする事になる。

 「大魔神」は1作目で、その後合計で3本作られた。wikiによると、3本とも1966年に作られており(4月,8月,12月)、当時の映画が如何にテレビに代わる前の一大娯楽であった事がよくわかる。でもきっと大魔神が暴れ回るセットは使い回したんだろうな。「大魔神」のストーリーは、今でも通用する典型的なヒーロー物だ。普段はやさしい顔をした仏様の像で、村の隠れ本尊のようにひっそりと山奥に座っているが、悪代官の所行に耐えかねた村人(無垢な女性や子供)が訴えると「大魔神」に姿を変えて、代官所や城を暴れ回って悪人を処刑する。自らの額にうがたれた鉄杭を引き抜いて悪代官を串刺しにしてしまう上に、なお気が済む事なく暴れ続ける。訴えた女性や子供自身が「こらえてください」とお願いして、ようやく元の姿に返る。日本古来の「荒ぶる神」を見事に演出していた。

 でも、この大魔神。たぶんシネスコだったと思うのだが、普段の石造りの仏の顔から、ダークグリーンにメークした生身の人間の怒り顔になるところがどアップで映し出されて、映画館の観客を圧倒する。もうワイド画面いっぱいに変身過程が映し出されるものだから、大の大人でも驚かされる。ましてや4歳児のショックは並大抵ではない。幼なじみは変身のシーケンスで引きつけを起こしてビービー泣いた。帰ると言ってわめいた。どうなったんだろう。ロビーに母親が連れていったのかな。僕はと言えば、そのまま見ていた。怖かったはずだ。でも面白い。怖い物見たさが勝った。

 その後、幼なじみにはトラウマが残った。かどうかは定かでない。僕には映画館の鮮烈な記憶が残された。

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2008年09月18日

七人の侍(1954年)

 先日NHK-BSで黒澤明監督の代表作「七人の侍」を放映した。DVDレコーダーに予約録画したから、後日ゆっくりと見るつもりだったのに、息子が風呂からあがるのを待っている間にふとチャンネルを合わせると、宿場町で村人が侍を探す名シーンが飛び込んできて、思わず釘付けになってしまった。おかげで、子供を寝かしつけたあとで尻切れトンボになった半端な気持ちを満足させるために、端折りながらだが最後まで見てしまった。

 映画が終わってからの解説コーナーで若い視聴者のコメントが紹介された。「私はまだ映画館で『七人の侍』を見たことがない。テレビで見ると画面の比率がテレビ用にカットされているので残念だ。」という意見だった。確かにエンディングで4人の侍が葬られた盛り土の墓が全部収まってない感じがするので、ひょっとしたら少し両端がカットされているのかもしれない。ただしシネスコで見た記憶はないので調べてみると、公開時点ではシネスコ技術自体が日本に入ってきていなかった(日本初のシネスコ映画は1957年だそうだ)。スタンダードサイズで撮影されているので、本来なら普通のアナログテレビの画面に収まると思っていたのだが、そうでもないらしい。いずれにしてもテレビでは迫力が半減するので、映画館のスクリーンで見られるに越したことはない。

 しかし如何に世界に冠たる記念碑的作品とは言え、50年以上も前の作品を「映画館」で見る事は容易ではないのが現実だ。コメントを寄せた若者にはご愁傷様と言うしかない。僕は幸いな事ながら映画館で見ている。しかも、この映画を見た事でその後の映画好きが決定的になった、文字通り記念すべき映画体験だった。

 もちろん公開当時は生まれていない。おそらくリバイバル上映ということで、当時の名画座ではなくロードショー館で上映された。記憶が定かではないが、今は無き日比谷映画かみゆき座だったと思う。小学6年の年だとすると1974年なので、20周年を記念してのリバイバルということで辻褄が合いそうな気がする。

 たまたま大阪に住む叔父さんが出張で我が家に泊まって、オフの日曜日に気まぐれに僕を映画に連れていってくれたのだろう。数年前にその思い出を本人にぶつける機会があったが、まったく記憶にないと言う。まあ、多感な少年の思い入れに叔父さんが気づいていた訳がないか。だから、どうしてこの映画だったのかはついにわからず仕舞いだが、この〈超娯楽大作〉ならば小学生の僕にも楽しめるとはずだと思ったのか。

 当然ながら今のシネコンみたいに全席予約などない時代だから行列に並んだ。通路を最高列近くの扉から入っていったが、叔父と僕が飛び込んだ時にはすでに席は埋まって立ち見は決定的だった。でも、この映画館は毛足が長い絨毯が通路に敷き詰められていたので、叔父さんは中央席の列の両側にある通路に座ってみることを選んだ。こんなところで見るなんて初めての経験でびっくりした。しかも座ってみればスクリーンは近くにあってかぶりつきの最高の席だった。

 「ド、ド、ドン、ド、ド、ドン」という低く重い太鼓とともに白く太い文字で出演者やスタッフの名前が右に、左に大胆に傾けて画面に映し出されたのを覚えている。実は映画の内容に小学6年生の子供がどう感動したか、それとも感動しなかったか、まったく記憶がない。いや面白かったのは確かだ。その記憶がなければ、さきほど言ったように映画を見ることが、言ってみれば「人生の幸せ」であるかのような日々を、その後送ることはなかったと思うからだ。でも、映画そのものの感動が封印されるよりも、「映画館で映画を観る」という体験にこめられた奇跡の方が、僕には重要だった気がする。3時間を越える大作のあいだに休憩が入るのも初めての経験だった。しかもスクリーンが「休憩」の文字を写しだして第一部が終わったのだ。

 そして、この日9月6日は黒澤監督の十回目の命日だった。十年前の今日、監督は鬼籍に入られ、十年後のこの日に僕ら親子は魚から姿を変えた女の子が少年に会いにくる映画を見ていた。津波の圧倒的なパワーにも負けない女の子と、それとは対照的な優しい心をもった少年とのドラマに胸がいっぱいになった。その夜に日本映画最高峰の映画を見た。この偶然が嬉しかった。映画は映画を呼ぶ。そして宗介少年が、少年の心を持ち続けた黒澤監督の魂を呼び寄せた。そう思いたい。

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2008年01月07日

フラッシュ・ゴードン(1980年)

 今も昔も正月映画ほど詰まらないものはない。大味な超大作映画を多くの映画館で判で押したように上映するからだ。しかも今でこそなくなったが、昔はオールスターキャストの顔見世興行的な映画が上映されたから、詰まらない映画がさらに詰まらなくなったりする。なんてご隠居の小言みたいな事を言ってばかりで、さてここ5年ばかりは映画鑑賞から遠ざかってしまっているから、最近の正月映画は相変わらず詰まらないのかと思いきや、意外と小粒で面白い作品や正月らしからぬテーマ性のある映画など取り混ぜて上映されている。僕の認識がすでに古いのかもしれない。

 まあ以前はそうだったとしておこう。ただしそれもこれも映画好きが高じて年間150〜200本の映画を観に行くマニアックな日常だったからこそ言える話だ。年末年始に1本か2本の映画を観るだけなら、大味な超大作でも十分なのかもしれない。そもそも正月にふさわしい映画とはなんだろうと考えると、家族や恋人どうし、あるいは何人もの友人と連れだって賑やかに楽しめるものがいいのだろう。昔家族で正月に観た「天平の甍」や「ナイル殺人事件」の映画としての出来をうんぬんするより、正月に父や母や兄と一緒に観に行ったという思い出こそが今となっては大きな財産だ。

 そしてまさしく「フラッシュ・ゴードン」は、高校の友人たちと一緒に観たという愉快な思い出と結びついた映画である事がなにより重要だ。1980年というと高校2年生で迎えた正月だ。これ以後は受験を控えてみんなでつるんで映画を観に行く事は難しくなった。もしかするといつものメンバーで映画を観に行く最後の機会だったかもしれない。

 なぜこの映画を選んだのか、誰が観ようと言い出したのか、よく覚えていない。この年の正月映画で高校生がゲラゲラ笑いながら気楽に楽しむのに最適な映画だったのだろう。元々はアメリカのパルプマガジンのSF漫画が原作だ。今で言えば「スパイダーマン」や「Xマン」「ハルク」のようなB級感覚が全面に出た映画だった。もっとも、これらの映画のようにB級のテイストをSFXやCGを駆使して洗練した映画なんだろうと思ってもらっては困る。この映画はモロB級テイスト全開の映画だった。

 たとえば主人公のアメリカンフットボールの花形選手フラッシュ・ゴードンは、ビバリーヒルズの青春もののように金髪のサラサラ髪に筋肉質な肉体を持ちあわせ、なぜかわからないが宇宙的規模の侵略者(わかりやすく言えばデスラー総統みたいな奴だ)の魔の手から地球を守る役目を引き受ける事になる。そのチープなんだか壮大なんだかわからない荒唐無稽な設定をそのまま映像に移し替えた作品で、もし今観たとしてもそれほど面白い映画ではないかもしれない。

 ただなんと言ってもその数年前の1977年に、あの「スターウォーズ」が映画制作に画期的なテクノロジーを持ち込んで、その後の映画に多大な影響を与えたことを考えると、この映画は同様な題材でありながら「スターウォーズ」の革新をあえて無視して、言わばアナクロ(時代錯誤)に徹した手作り感が貴重な映画だったように思う。

 一番記憶に残っているのは、クライマックスでフラッシュ・ゴードンが敵の本拠地に向かう際に、ズン・ズン・ズン・ズンという重低音のリズムとともにクイーンの高音の歌声がかぶさるシーンだ。敵の基地からは稲光を絵に描いたような光線が飛び交い、その中をゴードンたちがすり抜けていく。これは当時「フラッシュのテーマ」として何度も聴いていたので、このシーンが始まるとみんな「来たぞ〜」と盛り上がった。

 主役のゴードンを演じた役者はその後消えてしまったようだが、地球の危機を予測した博士役を、僕の好きな映画「フォロー・ミー」に探偵役で出ていたトポルが演じていた。敵のミン皇帝の凶相も印象深いが、名優マック・フォン・シドーだったのか。やはり正月映画の大作らしい豪華な配役だ。フラッシュ・ゴードンに協力する銀河王国の王子に、その後007も演じた若き日のティモシー・ダルトンが配役されている。

 たぶんパンフレットの解説に書かれていたんだと思う。ジョージ・ルーカスは元々新聞に連載された漫画の大ファンで映画化を望んでいた。しかし映画化の権利がとれなかったので、あきらめてオリジナルのスペースオペラを書き上げて映画化した。それが「スターウォーズ」というわけだ。なるほど帝国軍と反乱軍との壮大な争いという構図が非常に似通っている。 

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2007年12月26日

めぐり逢い(1994年)

 クリスマスの映画を「記憶」から取りだそうとして、なかなか思い当たらない。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を目黒の名画座のナイトショーで観た事をようやく思い出した。実は観に来て初めて、ずいぶん前にテレビで見た別の映画と勘違いしていた事に気づいた。どちらもビング・クロスビーがクリスマスの名曲〈ホワイト・クリスマス〉を歌うので、てっきりそれだと思いこんでしまった。

 調べてみるとクロスビーのクリスマス映画としては「我が道を往く(1946年)」と「スイング・ホテル(1942年)」がある。よく覚えているのはクロスビーが副牧師として派遣されて、教会の窮状を助けるために奮闘する「我が道…」の方なのだけれど、調べてみると〈ホワイト・クリスマス〉は歌われていない。映画「ホワイト・クリスマス」は「スイング・ホテル」のリメイクなので当然ながらこちらでは歌われているが、どうもあらすじを読んでもピンとこない。おそらくだが、クリスマスらしい暖かい話に感動したのと、主演のクロスビーの歌に魅せられたのとで〈ホワイト・クリスマス〉もてっきり歌われたとまたまた勘違いしていたようだ。

 ところで今回記憶から取り出した映画は、クリスマスそのものを正面から題材にした映画ではない。ハリウッドの王道中の王道である〈永遠のラブストーリー〉とも言える一作「めぐり逢い」だ。こちらも2回目のリメイク作品で、一度目のリメイクがケーリー・グラントとデボラ・カー主演で題名も同じ「めぐり逢い(1957年)」だ。本当はこっちの方が大人の男女の恋という感じがして好きな映画だ。ケーリー・グラントは「シャレード」で見せた知性的な魅力に加えて、愛する事に臆病になっている翳りある中年を好演していた。

 内容の良さという点ではケーリー・グラントの「めぐり逢い」に軍配があがるが、見やすさの点で今回のリメイクをオススメしたい。本作の主演はウォーレン・ベイティとアネット・ベニング。とにかくベニングが息を呑むほど美しい。1957年版「めぐり逢い」は男の魅力を見る映画だが、1994年版の「めぐり逢い」は女性の魅力に圧倒される映画になった。

 ウォーレン・ベイティ扮するマイクは、アメリカンフットボールの花形選手を経てスポーツ解説者になっている。売れっ子だが少々軽薄そうだ。ベイティは「天国から来たチャンピオン」では、手違いで寿命よりかなり早く天国に連れていかれたクォーターバックを演じていて、今回の設定はそれを踏まえている映画ファンには楽しい。一方、アネット・ベニング扮するテリーは、前のリメイクのデボラ・カーと同じく歌手という設定だ。しかも同じ飛行機の隣の席になった二人は以前に面識がある。マイクはすっかり忘れていたがテリーは覚えていた。そのときの印象は悪い。最悪の出会いだ。

 にも関わらず二人が運命に縛られるのは、エンジンの故障で不時着した島の奥地に住むマイクの伯母の存在だ。年老いた伯母は亡き夫の面影を胸に今も一人で生きている。その愛情の強さにテリーは心を打たれ、さらには伯母からマイクが真実の愛を求めつづけている事を聞かされる。二人を結びつける役目を果たす事になる伯母を演じているのが、かの名優キャサリン・ヘップバーンなのも、この映画のみどころだ。かつて数々のラブストーリーを自ら演じてきた彼女の重みある存在によって、前回のリメイクよりも現代的で軽薄になりがちな展開に一本芯が通った感じがする。

 二人は惹かれあい、互いのこれまでの生活や互いの婚約を解消した上で、エンパイアステートビルディングの最上階での再会を約束する。何故そんな事をせずにひっきりなしに連絡をとらないのか、などと野暮な事を言ってはいけない。今も昔も、永遠のラブストーリーは当事者自ら〈すれ違い〉の足かせを抱えるからこそ、それを乗り越えた結末が美しいのだ。

 マイクは大学のしがないコーチの職につき、テリーは歌手をやめて幼稚園の先生になる。すべては新しい生活のために人生をやり直す事を選ぶ。僕には、ハリウッドが奏でるはかない夢のようにも見える。現実には誰しも華やかな人生は捨てられないだろう。ずいぶんと世の中を知りすぎてしまった二人が、あえて二人だけの純愛を貫こうとする。そこがとてもいじらしい。まさに永遠のラブストーリーとして語り継がれるにふさわしい。

 約束の場所に向かおうとしてテリーは交通事故に遭い、ついに二人は再会できない。しかもマイクは彼女が自分を選ばなかったと勘違いをして失意のまま、その場を離れる。

 次の場面がクリスマス直前の劇場だ。テリーはかつての婚約者(なんと007のピアーズ・ブロズナンだ)と一緒にコンサートを聴きに来ている。マイクは一人だ。二人の再会はあまりに男に誤解を抱かせるようにできている。事故を知らないマイクは、席についたテリーに声をかけるだけでさびしく去っていく。マイクに連れがいないで自分に連れがいる、そのことがテリーには歯がゆい。

 そしてクリスマス当日の夜。パーティーの誘いをすべて断って一人静かに自室で過ごす彼女のもとにマイクが訪れる。伯母からテリーあてのショールの贈り物を手渡しに来たのだ。「伯母様はお元気?」と話をはぐらかすつもりが亡くなったことを聞かされて、テリーは運命の残酷さと永遠の儚さを知る。あとは交わすべき言葉もない。

 しかし、もはや存在しない伯母から永久の愛の証としてバトンのように渡されたショールが、二人の運命を再び寄り添わせる。ふと去り際にマイクは、彼女を描いた絵をあの約束の日に約束の場所にもっていった話をする。動揺するテリー。その絵は知り合いのレストランに譲ってしまったけれども、あるご婦人がどうしてもというので譲ったと支配人から最近聞かされた。女性は車椅子に乗っていた。

 そして、つき動かされるようにマイクは部屋を探し回って隣室で絵を見つける。

 「何故本当のことを言ってくれなかったんだい?」

 すべてを知って優しく問いかけるマイクに

 「あなたを(こんな私で)縛りたくなかった」

と涙ながらに答えるテリー。

 大甘なロマンスと笑いたい奴は笑えばいい。僕はこのエンディングに弱いのだ。

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2007年12月19日

女王陛下の007(1969年)

 僕はこの映画を高校生になってから観ている。それも映画館でだ。今の若い人にはちょっと想像がつきにくいかもしれないが、当時はまだDVDどころかビデオもなかったから、当然のごとくレンタルビデオ店などというものは街中に一軒もなかった。映画は映画館で観るかテレビの本放送で見るしかない。

 子供の頃は映画館に通うお金も知恵もなかったから、テレビで見られる映画がすべてだった。そういうニーズに応えていたからこそ、土曜・日曜の昼間には何かしらの映画が放映されていた。当時は深夜にテレビ放映がなかったので、古い映画は土日の昼間にやることが多かった。やくざ映画や戦争映画に混じって「007シリーズ」も繰り返し繰り返し放映され、ショーン・コネリー扮する初代ボンドが男臭さをぷんぷんと振りまくのを見ていた。子供の頃は何を見ても面白かったから、このシリーズも荒唐無稽なスパイ物として楽しんでいたはずだ。もちろん子供ながらに感じるボンドと美女とのベッドシーンも、未発達な少年の性になにごとか訴えかけていた(ように思う)。

 しかし、本当に007シリーズのファンになったのは本作からだ。そしてジョージ・レーゼンビーの2代目ボンドのイメージがあまりに初代とかけ離れているがゆえに、僕にとってはもっとも強烈な印象を植え付けられることになった。出会いがその後のつきあい方を左右するとすれば、本当に幸運な出会いだったわけだ。その意味では高校の友人に感謝しなければならない。この映画を教えてくれたのも「ワン・オン・ワン」を一緒に観た陸上部の友人だった。そして高校当時は新作とは言えなかったこの映画をみんなで観ることができたのは、名画座というシステムがあったからだった。

 今やロードショーを過ぎた映画はレンタルショップで借りて観るのがお約束だが、当時は〈名画座〉と呼ばれる映画館が古い映画を2本立てあるいは3本立てにして上映した。当時の決まりとして、公開されたばかりの映画は名画座にかけることが許されなかったから、公開から1年以上たった映画を新旧取りまぜて上映する。名画座と呼称される由縁だ。本作もそういった名画座の一つで友人たちと観たわけだ。

 陸上部の友人は観る前に見どころを熱心に説明してくれた。曰く、スイスの雪山を舞台に敵方の追っ手多数とボンドがスキーによるチェイスを繰り広げる。そのシーンがものすごい迫力だというのだ。しかもスキー板を片方失ったボンドが片足だけでスキーを続けるところに、超人的なヒーローぶりが描かれていて愉快だと言った。アスリートのはしくれで、自らスキーもたしなむ彼だからこその楽しみ方には、非常に説得力があった。

 スキーやボブスレーなどのスポーツを採り入れたアクションシーンの面白さに友人が惹かれた事は確かだろう。ただし今から思うとそれだけでなく、雪山のリゾート地を舞台にした007シリーズ屈指のロマンティックな内容にしびれたのだと思う。その点は僕も同感だ。何しろ美女たちを翻弄する魅力を持ち合わせた007が、本作では一人の女性を本気で愛してしまう。勝ち気な彼女の行動に振り回され、敵に捕らわれた彼女を助けるためにミッションに私情をさしはさみ、あげくに最後には結婚式まであげてしまう。これがマッチョなセクシーさが好評だったショーン・コネリー版007に続いて制作されたわけだから、当時異色作と言われたとしても致し方ない。

 レーゼンビーの2代目ボンドは不評だったため、この1作のみで降板した。だがイアン・フレミング原作の007シリーズを読んでみると、レーゼンビー版007こそが歴代ボンドの中でもっとも原作のイメージに近い。著者のフレミングが諜報部員時代の体験を基にして作り上げたヒーローとその物語は、映画のような荒唐無稽で超人的なスパイ活劇ではないのだ。だからこそ運命的な出会いを果たした彼女のために、諜報部員から足を洗うことも辞さない等身大のジェームス・ボンドを描いた希有な作品と言える。

 毎回脳天気と言えるほどにすべてが解決されるエンディングがお約束でありながら悲劇的な結末を迎えるのも、映画としての統一感よりも原作を重視した事の現れと言えるだろう。だからこそ僕は、この〈異色作〉を全面的に支持する。

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posted by アスラン at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月14日

ワン・オン・ワン(1977年)

 映画は読書と同様に孤独な趣味だ。ただし読書というのはいつでもどこでも場所を選ばずにできるし、本を探すためにあちこちの書店を巡るという行為がつきまとうのでアウトドアな趣味と言えなくもない。しかし映画に関して言えば、暗い映画館に2時間程度は拘束され、その間は人付き合いというものから離脱する。

 いや、もっと言えば映画を一人で見に行けば、その前後の時間も一人っきりで過ごす事になる。誰かと一緒に行けばいいのだろうが、誰かと行くと自分の趣味を貫きとおせない恨みが残る。なにより映画を見終わった時の感動が、自分とは異なる感想をもった連れの一言でぶちこわしになるのは避けたい。となると、映画好きが高じれば高じるほど、孤独な時間・孤独な一日・孤独な週末を過ごす事を余儀なくされる。

 しかし青春まっただなかの高校生ともなると、そういう姿勢は貫きぬきにくい。まだ人恋しい年頃だ。友人数人と一緒に映画を見に行くという事も、まま会った。特に陸上部の花形スプリンターだった友人を囲んだメンツで映画を見に行く時には、とにかくワイワイガヤガヤ。見に行く映画も自分の趣味などとは無縁だ。賑やかに笑えたりスカッとしたり恋してドキドキしたりする映画がいい。陸上部の友人の好みもそういう映画だった。体育会系らしく躍動感に富むジャンルが好きで、そういう映画に限ってやはり体育会系が好むような〈大人過ぎない恋愛〉が盛り込まれていた。

 「ワン・オン・ワン」はタイトルから分かる通りバスケットボールを素材にした青春映画だ(One on Oneは1対1でゴール下を争うゲーム)。と言っても近頃よくある弱小チームがコーチ・選手一丸となって優勝を目指すタイプのドラマチックなスポーツ映画じゃない。主人公の青年が挫折を乗り越えて成長していく物語だ。

 田舎の高校では花形だったヘンリーは、スカウトされて優勝が狙える大学のバスケットボール部に入部。ところが背が低いために実力を出せず空回り。大学が勉強をサポートするために派遣した女性の家庭教師ジャネットからはバスケをとったらただのダメ男だと蔑まれる。やがてコーチから見限られて奨学金を辞退するよう圧力がかかる。拒否すると手のひらを返したように特待生扱いでなくなり、成績の悪さを理由に落第させようと画策してきた。

 部活内で露骨なイジメにあったヘンリーは奮起する。その真剣な熱意を見直したジャネットは勉強の方を全面的にサポートし、二人三脚でコーチの嫌がらせに対抗する。二人はいつしか惹かれあうようになっていった。

 ついに土壇場でヘンリーは優勝決定戦にベンチ入りを果たす。正選手がケガで欠場してチャンスがまわってきたのだ。残り数分でわずかに負けている。コーチからは試合には出すが、すぐにボールは回せと念を押される。しかし一か八かで彼の真価が発揮され、次々と敵のディフェンスをかいくぐってゴールを重ねる。そしてタイムアウト間際に自らゴールを決めてチームを優勝に導く。

 翌朝コーチに呼ばれた彼は、これからも主軸として頑張ってほしいと言われるが、その場で大学をやめると告げて去っていく。ラストは恋人と1対1のボール遊びに興じるシーンで終わる。辞書を引くと「ワン・オン・ワン」にはマンツーマンという意味もある。ジャネットが勉強だけでなく人生の意味をヘンリーに個人教授するというモチーフも象徴したタイトルのようだ。

 何かにちょっと似ている。マット・デイモン主演の「グッドウィルハンティング」だ。あの作品は脚本もデイモンだったが、本作も主役ヘンリーを演じたロビー・ベンソンが脚本を書いている。バスケのシーンも吹き替えなしで見ごたえがあった。背が低くて好青年なところも共通点がある。残念ながらベンソンの方はその後は芽が出なかったようだ。

 高校時代の僕らには、こういう爽やかな青春ものが〈通過儀礼〉のように必要だった。いまだでもこの映画は、青春の痛みと気恥ずかしさを伴って僕の心の片隅に燦然と生きているのだ。

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2007年12月10日

フォロー・ミー(1972年)

 ロンドンの一流会計士の男がきまぐれで入った小さなレストラン。やせぎすでショートカットでエキセントリックな風貌の女の子が注文を取りに来た。中学生だった僕は深夜にたまたま観たその映画の中の女の子に惹きつけられた。決して美人とは言えない。神経質そうだが自分の意志は曲げない頑なさを持ち合わせ、はにかむ時にすてきな笑顔を見せる彼女がいっぺんで好きになった。いや、おそらく小さなテーブルの真ん中に置かれたキャンドルに、彼女が危なげな手つきでマッチを擦って火をつけるしぐさが永遠に僕の心に焼き付いてしまったのだ。

 彼女の名前はミア・ファロー。そしてその映画の監督はのちに知ったのだが、「第三の男」の名匠・キャロル・リードだった。「フォロー〜フォロー〜」と問いかける印象的な歌で始まるこの作品は、文字通り「私についてきて」と心から訴えかけるロマンティックな映画だった。

 会計士は彼女・ベリンダに魅せられて結婚をするが、内緒で行き先も告げずに出歩く彼女が浮気をしているのではと、私立探偵に素行調査を依頼する。私立探偵はいつもコートのポケットにお菓子のマカロンを持ち歩く変わった男・クリストフォルー。その日から彼はベリンダの後について行き先を調べる。

 そこでわかったこと。彼女は映画館でホラー映画の3本立てを観たり、公園でイルカのショーを観たり、植物園で美しい草木を愛でたり、夕日を観て心を奪われたりする一日をただ過ごしていたのだ。探偵は、彼女について回るうちに彼女の事が好きになってしまう。と同時に彼女のたとえようのない孤独に気づいてしまう。彼は彼女から身を隠す事が出来なくなる。ベリンダも毎日毎日ついてくるその男が気になってくる。

 ある日、いつものごとくホラー映画を観ようとする彼女に無言で別の映画館に来るように探偵は促して、ラブロマンスの映画を見せる。それから「僕についておいで」と合図して、探偵は自分が見せたい美しいものを彼女に指し示しながら前を歩く。それはロンドンの何気ない街の風景。変わった名前の通りの名前。ソルト(塩)ストリートに、グース(鵞鳥)ストリート。いつしか見せたいものがあれば、先に立って案内しながら無言でそれを指し示すというのが二人の約束になってしまった。

 そして木の垣根で出来た迷路に案内した探偵は、、先回りして迷路の真ん中の広場でランチの支度をしてベリンダを待ち受ける。驚き喜ぶ彼女だが、次の瞬間に自分が間違った事をしていると気づき去ってしまう。彼女が癒されたいのは会計士の夫なのだと探偵も気づいてしまう。彼女は結婚してお飾りになってしまった境遇に不満だったのだ。

 妻の口からこの数日間の話を聞き出した夫は、思わず探偵の事務所に乗り込んで詰め寄る。ところがベリンダもついてきて、夫が素行調査を依頼したことを知り、失望して家を飛び出てしまう。困り果てた夫はベリンダを探してくれと探偵に懇願する。夫の頼みを聞くというより、妻であるベリンダの孤独を埋めてあげるのは同じように孤独な心をもつ自分以外にないと知り、探偵はベリンダを探す。

 植物園で夕日を見ながら涙する彼女を見つけた探偵は、彼女のために夫との仲を取り持つ一計を考え出す。渋る夫に「最高の彼女を取り戻したければ僕を信じてやるんだ!」とマカロンが入ったコートを手渡して家から送り出す。夫が従う決まり事は、彼女のあとを追うこと。言葉を交わさないこと。彼女が指し示すものをただ見ること。遊覧船に無言で乗り込んだベリンダを白いコートを着た夫が追う。ポケットからマカロンを取り出して頬張りながら…。

 いまだに僕の記憶の中にいつでも取り出せるように大切に大切にしまい込んでいる映画だ。

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2005年09月30日

「空気のなくなる日」(1949年)と「空気がなくなる日」

 前から気になっていた事がある。それは

 僕の映画好きの原点は何か?

という事だ。

 昔から映画が好きだった。それは生まれてからテレビを日がな見て育ったテレビっ子であるという事と、実は同義だ。何を今さら、テレビなら今の子供も生まれたときから見ているじゃないか、と若い世代には言われそうだが、僕らの時はテレビしかなかった。

 今なら、やれビデオだシネコンだプレステだインターネットだipodだと何でもありの様相を呈していて、子供達の楽しみ方も多様性を極めている。しかもその楽しみ方はマスメディアを背景に抱えた楽しみ方で、日本中いや世界中至る所で同時に似たような事を楽しみ似たような情報を発信している世界だ。

 しかし僕らの上の世代までは、それこそテレビも一部の富裕層のステイタスに過ぎなかったし、レコード(アナログディスク)はあってもテープレコーダーは業務用以外は一部マニアにしかいき渡らない。そもそもステレオさえも高級品という時代だった。

 僕が生まれた数年後からカラー放送が始まるテレビは、いまだ草創期ののどかさを残していて、番組表にわざわざ「カラー」という文字が誇らしげに入っていた。ほとんどが白黒放送だったからだ。さらに遡ると、深夜どころか昼間の時簡帯でも番組が埋まっていないところがあってその間は放送休止。もちろん深夜放送が開拓されるようになるのはずっとずっと後だ。

 そして僕が物心着く頃。幼稚園の頃にウルトラQ、ウルトラマンが始まり、小学校にあがる頃には少なくとも昼間やゴールデンタイムに番組が埋まってないというのどかさはなくなってきた。ようやくテレビ時代が成熟してきた。そんな少年期を過ごした僕らにはテレビはそれこそ家族みんなで見るものであり、テレビ一台を家族がみんなが共有するものであり、そして子供の僕にとっては隅から隅まで朝から晩まで見続けるものだったのだ。

 アニメという言葉はまだなく、テレビの漫画は「伊賀の影丸」や「魔法使いサリー」「オオカミ少年ケン」「ガボテン島」などが繰り返し繰り返し再放送されるほど日本のアニメは手薄で、それを補うのはアメリカの良質なアニメだった。「シャザーン」「ゴームズ」「キングコング」「スーパースリー」「シンドバッド」「親指トム」そして「チキチキマシン猛レース」などがとにかくかっこよかった時代だ。赤塚不二夫の「天才バカボン」や「もーれつア太郎」が席巻するのはもう少し後だ。

 そして映画の事情も同様だった。子供向けのアニメは少ない分、テレビで見られる映画も大部分が大人向けのものだった。特に日曜ともなると、必ず東映の時代劇か任侠物か戦争物が放映されていて父が好んでみた眠狂四郎だとか座頭市だとか陸軍中野学校などなどは、その後僕の映画好きの素地を作って行くことになる。

 さて、ちょっと先走りすぎた。当時映画とはテレビで見るものだった。ビデオもない時代、しかも映画館においそれと行くわけにはいかない子供にとってはテレビから流れる映画がほとんどだった。

 それ以外にも、学校の講堂で時折短編映画が上映されたり、「親と子の映画を見る会」と称して月に一度だったか土曜日に区民会館で上映される映画、そして夏休みに校庭や空き地で催された納涼映画会などがあった。

 『ニュー・シネマ・パラダイス』や『ミツバチのささやき』などの映画でも描かれたように、屋外で上映される映画には子供たちの目を輝かせ、大人達の熱狂を誘う怪しくて素朴な「何か」に満ちていた。

 これらまだ書き尽くせない体験と時代の雰囲気の中に僕の映画の原点があるはずだ。そこで僕はここから始めようと思う。「大いなる遡行」とは逆向きに、つまりは時代の流れに逆らわずに現在へ現在へとひたすら漕ぎ出すのだ。題して「僕のニュー・シネマ・パラダイス」。

 前置きが長くなったが、まず最初に見た映画をとりあげたい、と言いたいところだがそんな記憶は残っていない。淀川さんは3歳の頃に初めて見た映画の事細かなシーンを記憶していたが、僕にはそんな芸当はできない。

 ただテレビで見たのではないドラマらしいドラマを描いた初めての映画の事はよく覚えている。それが「空気のなくなる日」(1949年)だ。前に書いた区民会館の「親と子の映画を見る会」で母と観た記憶がある。その映画の詳細については最近までよく分からなかった。ところがちょうど今、「戦後60年 日本短編映画のたどった道 ショートフィルムの60年」という企画が世田谷のトリウッドという映画館で開催中だと偶然知って、その上映作品の中に「空気のなくなる日」が含まれていて思わず目が離せなくなった。
 
プログラム5 - 児童劇映画の世界−学校の講堂で観たんです-1 51分
「空気のなくなる日」1949年、監督:伊東寿恵男、日本映画社、51分 
ハレー彗星の接近で地球から空気が吸い取られるという噂によって翻弄される村人達
を描く、児童劇映画の古典。マニアの間では「幻の日本SF映画」として名高い。学校
の校庭で催された<納涼映画会>で、この作品を観た子供は多いはずでは? 原作
は、富山の農民作家、岩倉政治の児童文学。


 これによると作成年が1949年だそうだ。僕が観たのは低学年の頃だから1966年は過ぎていたはずだが、どうりで古臭いと思った。終戦から4年後に撮られている。しかし別のサイトで確認したところでは公開年は1954年になっている。短編映画というジャンルになっているのも初めて知った。商業映画ではなかったわけだ。なるほどキネマ旬報のサイトで検索しても見つからない理由がようやく分かった。

 原作がある事も知らなかった。原作は「空気がなくなる日」で映画とは一字違い。「が」を何故「は」にしたのか意図が分からないが、ひょっとしたら単なる勘違いだったのかもしれない。この児童文学が戦前のものか戦後のものかはどうしても確認できなかった。当時はかなりSFチックなユーモア小説として読まれたようだ。

 内容はさきほどの紹介文に書かれているとおりだ。ハレー彗星によって空気がなくなるというデマが流れたのは事実だそうで、それをどうしたら回避できるかをおもしろおかしく描いていた。僕が特に記憶しているのは、欲深な自転車屋がタイヤのチューブを片っ端からふくらませて、大きな釜の中に入ってチューブの中の空気を吸って彗星をやり過ごそうとするシーンだ。自転車屋を花沢徳衛が演じていたとは覚えてなかった。欲深というのは、チューブがいっぱいありながら村人の誰にも提供しなかった事からも子供心によく分かった。もちろん何事もなく彗星大接近は終わりを告げるのだが、いずれ自転車屋の欲深がたしなめられる結末になっていたと思うのだが、そこまでの記憶はない。

 今回の上映が観られれば本当にうれしいのだが、その暇はなさそうだ。せめて原作があるというならば読んでみたい。ひょっとしたらもっと鮮明な映画の記憶がよみがえるかもしれない。
posted by アスラン at 02:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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