2012年06月15日

森崎書店の日々(2012/6/8ツタヤでレンタル)

 TSUTAYAの会員証の更新がやってきた。悩む。新作を含めてDVD一枚が無料レンタルできるからだ。何を悩んでいるかというと、無料で借りられるならば日頃借りない新作をぜひ借りようと決めているからだ。ところが、いざ借りようと思っても借りる当てがない。なにしろ映画を見なくなって、はや10年になる。今の映画状況がどうなっているのかわからない。いわば土地勘ならぬ”映画勘”が無くなってしまったのだ。もちろんハリウッド映画のビッグタイトルを選べれば何の苦労もないのだけれど、映画館通いをしていたときからして、大味な大作は夏休みとか正月休みに観る映画がどうしても見つからないときの控えにすぎなかった。無料レンタルなのに、やっぱり手が伸びない。

 やはり安全パイとして邦画をチョイスすることにした。今や洋画が人気で邦画が低迷するといういびつな状況はなくなり、映画の本数を見る限りは邦画は人気を取り戻している。だからといって映画業界が安泰なわけではないだろう。すでに弱小映画館は青息吐息の状態だ。あと十年もすれば、ゆっくりと映画館で映画を観る日々を取り戻せるかと思ったら、そのときは肝心の映画館も映写システムも根こそぎ入れ替わっているという事になりそうだ。

 それはともかくとして、全国でロードショーするような大作ではなく、気楽に観られて心にひっかかりが残るやつがいい。そんな選択肢で選ぶとそれなりに見つかるのだが、やはり失われた10年は大きい。どれが良さそうか、その1本が決められない。悩みに悩んだすえ、この作品を手に取った。本好きの常として原作は読書候補リストに挙げておいてはあるが読んではいない。今回観ておもしろかったら本も読もうという腹づもりだ。いや、面白くなくても原作は面白いのかもしれないと思って、やっぱり読みそうだ。それでもいい。

 主人公の女性・貴子はデザイン学校を卒業してOL勤め。彼氏もいるが、一年半つきあったところで「俺、結婚するから」と言われてばっさりと関係を切られてしまう。自分としては彼氏・彼女の関係だと思っていたのに男の方は単なる遊び相手に考えていた。「結婚する」と宣言しておきながら「別れよう」の一言もなく、「今夜どうする?」とさらなる関係をせまる男も男だが、言い返せない女も女だ。つまりは、そんな「自分に自信が持てない女性」が、この映画のヒロインだ。

 こういう関係が今の若い世代にとってリアルなのか正直わからない。一言で言えば「悪い男」にひっかかっただけだ。貴子がそこから立ち直れない理由も本当のところは理解しにくい。そういう打たれ弱い人間なのだから仕方ない。相手の男に怒りをぶつける事もできずに、身を引くように会社まで辞めてしまう。やれやれ…。

 そこに助け船を出してくれるのが、小さな古書店を経営している叔父だ。叔父の古本屋の二階に間借りさせてもらい、叔父が店を空ける時だけ店番をする。そんな気楽な日常を、貴子の母である姉に頼まれた叔父は貴子に提供する。貴子は叔父の行為に感謝する余裕もない。親戚らしきつきあいもそれほど交わしてこなかったのに、何故今になってと疎ましく思っている。しかも古本屋の二階はほとんどが古本の山で埋もれているのだ。

 やがて、本好きの常連さん、本屋街の中の喫茶店の人びとたちの気心に触れて、本でも読んでみようかなぁという気分になる。それまであまり本を読んでこなかった彼女にとって、傍らの山から無作為に選んだ古本は、彼女の心のぽっかりと空いたすき間をひたひたと埋めていく。

 ただし、本が虐げられ傷ついた心を癒やす特効薬になってくれるわけではない。本の効き目はじわじわと人生の長さと同じぐらいのテンポで効いてくるに過ぎない。長い目で見れば効き目を実感できるかもしれないが、貴子にとって必要なのは、今まさに自分を救ってくれる「何か」なのだ。コインランドリーでの彼氏に抱かれる白昼夢は忘れようとして忘れられない痛みであるとともに、取り戻せるなら取り戻したい救いでもあるのか。

 けっして出来がいい映画ではない。叔父が何に心を痛めて生きてきたのか、それをどう乗り越えてきたのかも最後まで描かれないにも関わらず、姪の貴子のことを「僕の天使なんだ」と言い切るセリフに込められたものを、この映画では何一つ描ききってはいないからだ。そして貴子の方も、どう立ち直っていくのか、そのためにどう自分に向き合っていくのかが、最後までよくわからない。前述したコインランドリーでの妄想シーンは、貴子が自分と向き合う問題の表れではあるがあまり分かりやすくはない。男にもてあそばれたという事に傷ついているだけなのか、本当ならば寄りを戻したいという未練なのか。おそらくは両方なのだと言いたい演出なのだとは思うが、そもそもこの映画には性の問題を本格的に持ち込む切り口がないので、最後まであのシーンだけが浮いたままで終わってしまう。

 僕は神保町という街をよく知っているからあの街にひとかたならぬ思いはあるが、あの本屋街を貴子にとっての”癒しの場”として描く事にはちょっと疑問を感じた。そもそも原作ではどう描かれているのかはわからないが、映画の中のヒロインは〈森崎書店の日々〉でどれだけ本が好きになったのだろう。そんなことも、実のところ映画ではよくわからない。貴子や叔父や神保町という街を描く一方で、同時に本のもつ魅力を描いていく事がもうひとつの大切な主題ではなかったのだろうか。もしそうだとするならば、この映画がそれに成功しているとはいいがたい。
posted by アスラン at 12:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月31日

続・僕は「相棒」をどれだけ見てきたか?

 2009年10月21日の時点で、僕は、シーズン1〜シーズン7までの「相棒」130本のうち、約61%ぐらいを見ていた。そのときも書いたが、「遅れてきた相棒ファン」なので一昨年(2007年)には存在を知っていながら、まったくの関心を示さなかった。どうやらそこらにある普通の刑事ドラマの一つに過ぎないと思っていたからだ。

 ミステリー好きを自認していながら、なんたるうかつなことだろうか。あまたある刑事ドラマとしても、そして2時間物のサスペンスドラマなどを含めてもTVドラマのミステリーとしても、ほぼ最高峰の内容を誇る作品を、僕はいったい何年無視してきたのだろう。単発ドラマとして始まったシーズン1は別にしても、シーズン2は2003年には始まっているから、4〜5年は放置していたわけだ。子育てに追われていた時期だったからやむを得ないにしても、「相棒」のなんたるかを知ってからというもの、テレ朝やBS朝日で再放送をやるたびに、こまめにHDDレコーダーに録画しては見直している。そのうち100%視聴済みになることを目指してだ。

 その甲斐あって、シーズン8もシーズン9も、何本かのとりこぼしはあるにしても、ほぼ順調に見ている。あとは、過去の取りこぼしをどうやって拾っていこうかという点だ。必要ならばレンタルしてもいいのだが、幸い「相棒」は最新シリーズも好評なため、昼過ぎの再放送の時間帯で繰り返し過去のシリーズを再放送してくれる。ちょうど今もシーズン1あるいはシーズン2から始まって毎日2本ずつ再放送をしてくれている。これによって取りこぼしがかなり減った。

 とともに、「100%視聴」は夢に終わるという事も知った。なんとシーズン3に1本だけ欠番のドラマがあるのだ。毎日の録画でも番号が抜けているのでおかしいなとは思ったのだが、どうやらクレームがついた作品でテレビで放映しないだけでなく、セルDVDにも収録されていないらしい。つまりはクレームが付く前の本放送を見た人だけが知っている「知る人ぞ知る」作品となってしまった。相棒ファンともなれば、機会があれば見たくなるのは道理だが、それでなくても見るべき対象は一杯ある。ここは潔く諦めて99%視聴を目指すこととしよう。

 シーズン8(全19話),シーズン9(全18話)なので、全部で

130+19+18=167話

が新たな分母となる。
それに対して、前回の記事で116話まで見ている。新たに加わったのは40本だから、今日現在で156話を見終わった。つまり、

156/167*100 = 156話/167話 = 93.4%(2011/5/31現在)


という事になる。

 残りは11本。ひょっとするともう少し見終えているのかもしれないが、あらすじをウェブで探して読んでみても、登場人物の名前と顔をじっとにらんでも思い出せない。こんなに思い出せないのだから見てないのだろう。見てあったとしても思い出せないのだから、見てないのと同じだ。となると、もうテレ朝の再放送では落ち穂拾いにならないということか。確か、BS朝日の方でシーズン8の再放送をやっていたはず。そちらも録画しないと。

 いや、言い間違いではない。「そちらを録画しないと」ではなく「そちらも録画しないと」だ。今やっているテレ朝の再放送の録画はやはりやめられない。何度見ても面白いものは面白いからだ。特に長門裕之さんがお亡くなりになった今となっては、彼の演じる「閣下」の回は見逃せない。シーズン4第一話「閣下の城」だ。驚いた…。田中実さんも出演しているではないか。では、なおさらこの再放送をお二人のお弔いとして、心待ちにするとしよう。

[Season 1]

第1話 警視総監室にダイナマイト男が乱入! 刑事が人質に!!犯罪の影に女あり…
○第2話 教授夫人とその愛人
第3話 秘密の元アイドル妻
第9話 人間消失

[Season 2]

第6話 殺してくれとアイツは言った
第9話 少年と金貨
○第14話 氷女
第17話 同時多発誘拐〜消えた16人の子供達

[Season 3]

(欠番)第7話 夢を喰う女
○第8話 誘拐協奏曲
○第14話 薔薇と口紅
○第16話 人間爆弾

[Season 4]

○第11話 汚れある悪戯〜史上最大の誘拐事件

[Season 5]


[Season 6]


[Season 7]

○第3話 沈黙のカナリア
○第7話 最後の砦

[Season 8]

○第1話 カナリアの娘
○第2話 さよなら、バードランド
○第3話 ミス・グリーンの秘密
○第4話 錯覚の殺人
○第5話 背信の徒花
第6話 フェンスの町で 森田直幸、阪本奨悟、仁藤優子 福田健一 東伸児 2009年11月25日 18.0%
○第7話 鶏と牛刀
○第8話 消えた乗客
○第9話 仮釈放
○第10話 特命係、西へ!
第11話 願い 黒田福美 太田愛 安養寺工 2010年1月13日 15.7%
第12話 SPY 美木良介、小嶺麗奈、芦川誠 櫻井武晴 近藤俊明 2010年1月20日 17.2%
第13話 マジック 中村有志、クノ真季子 ブラジリィー・アン・山田 東伸児 2010年1月27日 17.1%
○第14話 堕ちた偶像
○第15話 狙われた刑事
○第16話 隠されていた顔
○第17話 怪しい隣人
○第18話 右京、風邪をひく
○最終話 神の憂鬱

[Season 9]
○第1話 顔のない男
○第2話 顔のない男〜贖罪
○第3話 最後のアトリエ
○第4話 過渡期
○第5話 運命の女性
○第6話 暴発
○第7話 9時から10時まで
第8話 ボーダーライン 山本浩司 櫻井武晴 橋本一 2010年12月15日 21.2%
○第9話 予兆
○第10話 聖戦
○第11話 死に過ぎた男
○第12話 招かれざる客
○第13話 通報者
○第14話 右京のスーツ
○第15話 もがり笛
○第16話 監察対象
○第17話 陣川警部補の活躍
○最終話 亡霊
posted by アスラン at 13:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | TVダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

さようなら恵比寿ガーデンシネマ

 恵比寿ガーデンシネマが来年早々1月いっぱいで閉館するそうだ。

僕の映画館めぐりは2000年を境にしてほぼ休止状態なので、最近のガーデンシネマの活況はよく知らないのだが、すくなくともすでに六本木のシネヴィヴァンはなくなり、俳優座のシネマテンも当然ながらない状況で、恵比寿ガーデンシネマはミニシアターの先駆けとして、よく頑張った方かもしれない。

何しろ恵比寿という土地柄はそもそも映画とは無縁で、もっぱら新宿や渋谷に映画館は集中している。そこでしか見られないというスクリーン小さめで独特な配給体制をとるミニシアターだって、渋谷の文化村周辺に行けば、当時はいくつもあった。何も辺境の恵比寿のどんづまりでやる事はないだろうにと、映画好きにとっては当時うらめしかった映画館に違いない。

なにしろ、恵比寿ガーデンシネマはガーデンプレイスの奥の方にひっそりとたたずんで、映画フリークたちを待ち構えている。今は当たり前になった動く歩道がJR恵比寿駅から延々と続き、それをこらえきれずに高速で歩き飛ばすのがお約束のアプローチだった。

 このブログに掲載した当時の映画日記から恵比寿ガーデンシネマで観て書かれた文章を抜き出してみた。どれもこれも個性的で面白い映画だったように思う。実はガーデンシネマのオープニングを飾った ロバート・アルトマン監督作品の「ショート・カッツ」も観ているはずだが、感想を残しそこねた。あれほどゴージャスな偶像映画はなかなかお目にかかれない。そう、恵比寿ガーデンシネマは映画ファンにとって垂涎の「ゴージャスなごちそう」を提供し続けてくれたのだ。

どうもありがとう。お休みなさい。また、帰ってきてください。

「スウィンガーズ」(1997年9月14日(日))
 恵比寿ガーデンシネマで「スウィンガーズ」(no.31)を観る。

 この映画館で観るのはおととしの「スモーク」以来だ。日曜の2:00なので人出はずいぶんあるが予定の回は満席ではなかったので一安心。

 ハリウッドにやって来た無名のコメディアンのマークとその仲間の友情物語。マークは6年つきあった彼女に振られて失恋の痛手からなかなか立ち直れない。仲間は慰めるかのようにべガスに誘ったり、ビバリーヒルズのモデルのパーティーでのナンパに誘ったりする。

 せっかく女の子から電話番号を聞き出しても、最低3日は待てというアドバイスを無視して、その晩のうちに留守電に5度もかけて「2度とかけないで」なんて言われてしまう。

 哀しいくらい純情でロマンティストなマークに明るい明日は来るのだろうか。いや、それが来てしまうんだな、これが。

「マッド・ドックス」(1998年1月25日(日)) 
 食事後、恵比寿に移動。恵比寿ガーデンシネマで「マッド・ドックス」(no.12)を観る。

 ギャングの大ボスが精神病院から戻ってくる。彼のいない間に好き勝手やっていた子分やライバルたちは戦々恐々として彼を待ち受ける。ギャング映画だけれどブラックユーモアが強いコメディになっている。

 ギャングのボスがあのリチャード・ドレイファスだし、ボスの女に手を出してしまった男にジェフ・ゴールドブラムだ。その他出てくる人がアクの強い個性派俳優ばかり。

 ストーリやカメラワークはちょっと誇張がすぎるが、昔のハリウッド映画のようで面白い。

「スリング・ブレイド」(1998年1月31日(土))
 恵比寿ガーデンシネマで「スリング・ブレイド」(no.15)を観る。

 幼い頃、母親と不倫の相手とを鉈(スリング・ブレイド)で殺害して精神病院に収容されたカールは25年後に退院する。

 病院で穏やかな日々を過ごした彼は病院以外行く所がないが、知り合った少年フランクの家のガレージにすまわせてもらう。父の面影を求めて慕ってくるフランクと心を通いあわせるが、母親の恋人がひどい男でフランクやその母に暴力を振るうのを見兼ねて再び殺人を犯して病院に戻る。

 心の純粋さゆえに人を殺すクライマックスの緊張感、そして再び病院の単調で穏やかな日々。しかし窓の外を見つめる彼の心には、以前にはないあの親子の姿が刻まれている筈だ。

「ニル・バイ・マウス」(1998年2月21日(土))
 恵比寿ガーデンシネマで「ニル・バイ・マウス」(no.28)を観る。

 あの「レオン」「エアフォースワン」で強烈な悪役を演じたゲイリー・オールドマンが脚本・監督をした映画だ。

 ロンドンの下町で貧しい暮しをしている労働者階級の家族を描いている。夫は失業中でヤクと酒におぼれ、妊娠中の妻に乱暴して流産させてしまう。妻は家を飛び出すが、夫は妻を執拗に追い求める。

 ヘビーな内容だが後味は悪くない。レイ・ウインストン演じる夫はヤクこそやってはいるが、どん底の貧しい生活から抜け出す事が出来ず家族に温かい言葉もかけられない不器用な人間だと分かるからだ。自分の親父もパブに入り浸りで何一つ愛情を注いでくれなかった。そんな親父と同じ道をたどっている自分に嫌悪感を感じている。

 妻も元の鞘に戻る。これは愛情からなのか、行き場のないあきらめからなのか。

「エンド・オブ・バイオレンス」(1998年4月11日(土))
 恵比寿ガーデンシネマで「エンド・オブ・バイオレンス」(no.52)を観る。

 ヴィム・ヴェンダースの新作だ。

 1995年の「リスボン物語」でようやく初期の作品のような初々しさを取り戻したヴェンダースが今回選んだ舞台は大都市ロサンゼルス。人知れず忍び寄る都会の暴力がテーマだ。

 思えば「アメリカの友人」や「パリ・テキサス」など暴力の意味を問う作品をこれまでにも何本か撮っている。それも直接的な暴力シーンというより内面の恐怖、そしてそれが周囲の人々に与える影響を鋭くクールに描き出す。映画やTVが生み出す暴力シーンが人々の感覚を麻痺させている現状をシニカルに捉え、そこから人々の生き方を変えてしまうファクターをある意味では都会での必然とみている。都会人の愛と孤独こそが暴力を生み出す根源なのだ。

 俳優がどれもいい。「いい人」俳優ビル・プルマンと神経質そうなアンディ・マクダウェル、苦悩する孤独なガブリエル・バーン。極めつけはバーンの帰りを待ち続ける父親に、あの映画監督サミュエル・フラーだ。ラストにひたひたと暖かさが染みわたってくる映画だ。

「十二夜」(1998年5月24日(日))
 恵比寿ガーデンシネマで「十二夜」(no.73)を観る。

 シェークスピアの同名の喜劇の映画化。

 監督は数々のシェークスピア作品を手掛けてきた舞台演出家トレバー・ナンだ。

 双子の兄妹が海で遭難し離れ離れになる。妹ヴァイオラは兄の行方を求めて他国の公爵に仕えるため男装して小姓となる。男装ゆえ公爵からは愛されず、公爵が愛する令嬢(ヘレム・ボナム・カーター)からは愛を打ち明けられるという設定の可笑しさ。戯曲としての面白さを余さず映像化している。

 ヴァイオラを演じるのは「いつか晴れた日に」で主人公のカップルの恋路を阻むあざとい令嬢役に扮したイモジェン・スタッブス。今回は男装の女性をうまく演じていて似合っている。かえって女性に戻った時の印象の方が嫌味かもしれない。

カチンコ
 例のアカデミー賞受賞作「恋に落ちたシェークスピア」でグゥイネス・パウトロウが男装するアイディアは、本戯曲のヴァイオラのエピソードから取られている。あの作品は様々なシェークスピア作品からのアイディアの引用がある。そうだ。アッテンボローの「ガンジー」で主役を演じたベン・キングスレーが狂言回しの役を怪演している。ヘレム・ボナム・カーターのヴァイオラに女のサガをさらけ出して追い求める姿も喜劇らしくて楽しい。

1998年7月1日(水) 「ガタカ」
 創立記念日で半ドン。川崎から恵比寿に直行して昼食後、恵比寿ガーデンシネマで「ガタカ」(no.91)を観る。

 平日の昼間だが映画サービスデーと重なったので結構混んでいる。

 近未来では遺伝子操作が進み、優良な遺伝子から生み出された一部の人間のみがエリートとなり、その他の人間は不適格者として差別されている。心臓に欠陥を持つ不適格者ビンセントはエリートとして生き抜くため、企業や警察の眼を欺き続ける。適格者でありながら事故で半身不随になったユージーンは、自らの野心を満たすためにビンセントを自分の身代わりに仕立て上げようとする。

 「大いなる遺産」のイーサン・ホーク演じる強い意志とナイーブさが同居するビンセントと、「オスカー・ワイルド」のジュード・ロウ演じるコンプレックスと嫉妬に苛まれたユージーン。二人の奇妙な友情と嫉妬がぶつかり合う。

 身元を隠すために全身の皮膚を毎晩こすり落としたり、爪を削ったり、血液を指先に仕込んだりと、近未来の単調で無機質な世界に非常に肉体的なイメージを持ち込んでいて、人間とは何なのかの暗喩ともなっている。

 ただし近未来の描き方が多少紋切り型で面白みに欠ける。

「真夜中のサバナ」(1998年7月31日(金))
 昼食後、恵比寿に移動。恵比寿ガーデンシネマで「真夜中のサバナ」(no.113)を観る。

 アメリカでもっとも美しい町とうたわれたサバナで実際に起った殺人事件を描いている。サバナは観光名所となる古くて豪華な邸宅が立ち並び、そこに住む人々も奇妙で妖しげな魅力に満ちている。頭にアブを飼っている発明家、首輪だけの架空の犬を散歩させる男、若い男娼を邸宅に同居させている富豪の骨董商などなど。

 話は、富豪の愛人だった男娼が富豪宅で銃で撃たれて発見され、富豪が逮捕され裁判沙汰になるというもの。でも裁判物というより、サバナというまるで生き物のように妖しげに蠢く町を描き出した映画になっている。

 今回もクリント・イーストウッドはそつなく監督をこなしているが、どうもこれといって特徴のない映画になっている。本人が出ていないのも残念だ。

カチンコ
 いま思い出しても最後までピントが合わない映画だった。そもそも原作どおりを思わせるような現実感の乏しい特異な住人たち。「首輪だけの架空の犬」だとか「頭にアブを飼っている」だの、これが本当にサバナにいたのだと投げ掛けられても、ハイそうですかと納得しようもない。これが寓話の世界という描き方ならばおもしろがることもできたが実際にあった事件だという。つまり観光名所で有名でありながらどこか狂っている町サバナでの出来事というスタンスなのかもしれないが、そもそもサバナのイメージから乖離してしまっている日本の一観客には想像力の限界というものがあるのだ。

「地球は女で回ってる」(1998年12月12日(土))
 恵比寿ガーデンシネマで「地球は女で回ってる」(no.173)を観る。

 ウッディ・アレンの新作で原題が「Deconsturcting Harry」。「ハリーを脱構築(解体)する」という意味になるだろうか。

 パンフレットにいとうせいこうも書いているが、何故今頃になってポストモダンの現代思想のキーワードを使うのか不思議な感じだ。

 ウッディ・アレンはこれまでも私小説的な映画を撮ってきたが、この作品ではいっそう現実と虚構との距離が近づいている。私生活ではインテリだが女に弱く精神的に絶えずコンプレックスを抱えている事を売り物にして「マンハッタン」や「アニー・ホール」を送り出してきた。

 ダイアン・キートンやミア・ファローと次々に共演者をパートナーとしては別れ、その都度自らの私生活は作品へと昇華されていった。現在はミア・ファローとも別れて彼女の養女と再婚している。

 この作品でもそういった事情は妻の妹との不倫や、妻の患者との不倫、教え子との不倫などの本来あってはならない倫理的なタブーを侵すシーンに反映しているとも言える。しかしこの映画の最大の特徴は、言わば作家ウッディ・アレン自身を解体して、自らの作品を総ざらいしてしまうところにある。

 それは自らの作家生活を対象化して突き放す事でもあり、ある種の懺悔とも取れない事もない。と同時にこれまで積み上げてきたものに対する作家としての自負を示すかのように、書き上げた作品の中の登場人物が一同に会して作家を祝福するラストに、思わず「またもやウディ・アレンにしてやられた!」と観客はつぶやかざるを得ない。

 クリスマスのデコレーション満開で、サンタが愛想を振りまいているガーデンプレイスを後にして、新宿に移動して昼食。

「ロリータ」「セントラル・ステーション」(1999年5月3日(月))
 恵比寿ガーデンシネマで今日は一日過ごすつもり。中々来にくいところなので2本とも観てゆきたい。ガーデンプレイスのメイン広場では連休中の催しの大道芸で賑わっている。

 まずは始まったばかりの「ロリータ」(no.41)。

 ロリコンの語源となった小説の映画化。出版当時も今もスキャンダラスでありつづけるテーマを「ナインハーフ」「危険な情事」のエイドリアン・ラインが撮った。
 さぞかし刺激的な演出があるのかと思いきや、かなりオーソドックスな作風で、12歳のロリータに魅了され翻弄されて身を滅ぼしてゆく大学教授の顛末を描き出している。元々は教授の若き日に思い出として封じ込められた今は亡き少女の幻影をロリータに求めるところから悲劇は始まっていて、ジェレミー・アイアンズが恋に身を狂わす教授を見事に演じている。

 ロリータ演じるドミニク・スウェインは、歯に強制具をつけて微笑む演出が小悪魔的な子供らしさを感じさせるが、やはり原作より3歳年上の15歳とあって、二人の関係にあぶないものは感じられない。解説にもあったが原作どおりのイメージを映像化するのは今もって難しいテーマだと思う。

 恵比寿駅に戻って駅ビルで食事。連休中で食堂街も混みあっている。「動く歩道」も同様。なにしろ駅から遠い映画館だ。

 「セントラル・ステーション」(no.40)を観る。

 ブラジル映画。リオ・デ・ジャネイロの中央駅で、代筆業を営む女性ドーラ。彼女の元には様々な人々が思い思いの手紙を代筆してもらいにくる。しかし彼女はお金をもらって代わりに投函するといつわって持ち帰って送らずに棄てたりといいかげんな商売をしている。

 ある日来た母と少年は、出ていった父との復縁をせまる手紙を代筆するよう依頼したが、これもドーラは投函しない。やがて母は交通事故で死に駅には少年一人が取り残される。ドーラは罪の意識から少年の面倒を見て、やがて二人は別れた父を捜す旅に出る事になる。

 辛辣で情け容赦なかったドーラは、旅を続けるうちに少年と心を通わせ、どんどんどんどん少年がかけがえのない存在になってしまうところがせつない。

 少年が父と出会えば終わる旅なのに…。

「スモーク・シグナルズ」(1999年7月1日(木))
 創立記念日。去年と同じように12:00になるとすぐに退社し恵比寿に向かう。駅ビルの天麩羅屋で食事をとるのまで昨年と変わりない。

 恵比寿ガーデンシネマで「スモーク・シグナルズ」(no.65)を観る。

 ネイティブ・アメリカンの話で、予告を何度か観て期待していた作品だ。幼い頃に家族を捨てて出て行った父を許せないビクターは、遠い地で父が死んだことを知らされても会いに行こうとしない。

 幼馴染みのトーマスは幼い頃の火事で命を助けてくれた恩人であるためビクターの父を慕っている。しかもその火事で両親を失っているせいで父を憎んでいるビクターをうらやましくさえ思っている。トーマスの勧めでビクターはいやいやながらも二人で父の遺骸を引取りに旅立つ。それは二人にとって初めての居留地を出る旅でもある。

 もはやネイティブとしての尊厳を守ることが危うくなりつつある現代のインディアンの生活を背景にしながら、父親を尊敬できずに成長した主人公が、父の生き方を知り、自らの誇りを取り戻していく映画だ。思ってたより感動的ではなかったが、それでも味わいのある映画だった。子役の二人と青年の二人がよく似ているのがおかしい。

「クンドゥン」(1999年8月9日(月))
 恵比寿ガーデンシネマで「クンドゥン」(no.88)を観る。

 クンドゥンとは法王猊下の事。あのマーティン・スコセッシ監督が現ダライ・ラマを描いた映画だ。冒頭、チベットからはるばる遠い地方の一家を旅の僧数名が訪れる。亡くなったダライ・ラマ13世の生まれ変わりの子供を探しているのだ。

 この不思議なエピソードはベルトリッチの「リトル・ブッダ」ですでに馴染みのものだが、子供を前に法王が使っていためがねや杖といった日常品を二種類ずつ用意して、次々に子供が言い当ててゆき、最後に僧たちが笑顔で確信して頭を下げる。「クンドゥン!」と。
 感動的な冒頭から僕らは、チベットをやむなく去らざるをえなくなるまでのダライ・ラマの波乱な半生を追っていく事になる。

 スコセッシ監督は三人の幼年から青年までの俳優を使って、まるで「ラスト・エンペラー」のように緻密にダライ・ラマとその時代・環境を描き出している。

「I loveペッカー」「セレブリティ」(1999年11月3日(水))
 恵比寿ガーデンシネマに初回から出かけていったが、何故か混んでいる。祝日にしては混みすぎだなと思ったら、なんと今日は映画サービスデーでもあった。1000円で観られるので観客が多い。安いのはうれしいが予想外の混雑に戸惑う。

 まず「I loveペッカー」(no.112)(ジョン・ウォーターズ監督)を観る。

 かつてはインディペンデントの中でもかなりアングラな映画作りをして「ピンク・フラミンゴ」などカルト映画監督としてもてはやされた頃を思えば、ずいぶんと商業映画寄りの作品をつくるようになったものだと驚いた。

 もちろんインディペンデントのテイストは健在で、自分の生まれ故郷ボルチモアを舞台に奇妙で個性的で愛すべき登場人物を、コミカルでシニカルに描き出していく。エドワード・ファーロング扮する青年ペッカーが街なかをとり続けたスナップフォトがニューヨークで評価されて一躍有名人となるが、被写体にされた人々から総スカンを喰うはめになり大騒動になっていく。
非常に軽快なカメラワークとちょっと癖のあるストーリー運びで、ウォーターズ独特の楽しい映画となった。

 昼食はカフェ・コナファームでクラブハウスサンドイッチとアイスティーを取る。

 引き続いて「セレブリティ」(no.111)(ウッディ・アレン監督)を観る。

 セレブリティとは有名人の意味。主人公のケネス・ブラナー扮する売れない芸能記者は何をやってもうまくいかず、小説家をめざすといいながら書き上げてもいない。セレブリティになることだけを夢見て、芸能人を取材しながら自分を売り込もうとしている。ここらへんのドタバタを実際の有名人をいろいろと配置させて描いていく。

 ディカプリオ演じる乱交好きの若手スターというのも自身を演じているようでおかしいし、売れっ子の女優、モデルが多数でてくるだけでも楽しい。ただ知らない人も結構いるので本国人ほどは楽しめないだろう。心からげらげら笑えるというストーリーでもないのもやや不満だが、別れた妻のジュディ・デイヴィスが、主人公とは対照的に次第に売れっ子のレポーターになっていくのは面白い。

カチンコ
公開当時はまだ「セレブリティ」は耳慣れない言葉だった。当然ながらセレブという言葉は存在していない。
posted by アスラン at 19:48| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画を探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月19日

砂時計(2010年1月18日TV視聴)

 松下奈緒が好きなので、思わず年末の放映を録画してしまった。どちらかというと少女時代を演じた夏帆の方が登場シーンが多いので、少々物足りなかった。青春もののラブストーリーがメインなので致し方ないか。

 原作がコミックスで、それをいわゆる昼メロと言われた時間帯に連ドラとして放映し、さらに映画化にいたる。よくあるパターンだが、すでに回収できるものは回収しつくしたドラマに魅力を与えようとするには、映画ならではの見ごたえのある映像しかない。冒頭から息を呑むほどの美しい田圃のある高台からの風景。風や光、虹、そして海に砂浜。もう、ラブストーリーを演出するお膳立てがそろっていて、なんでもありの舞台設定と言える。

 ただし、昔見た香港映画「ラブソング」のように10年にもわたってすれ違いを続けるラブストーリーに感情移入し続けるためには、ピーター・チャン監督のような演出の力量が必要だ。どうしても年月を耐えたせつなさが感じられない。

 理由はいくつか考えられるのだが、ひとつにはヒロインのかなり身勝手な恋愛のひとりずもうが、周りの人々を振りまわすところに感情移入しきれないという点があるだろう。ただし、それもこれも母が人生に倦んで自殺してしまい、置いてけぼりにあったヒロインが、うけとめきれないほどのトラウマを抱え込んだという設定なのだから、やむを得ないのかもしれない。

 たしかにそうではあるのだが、そこにホラーにも近い演出を持ち込んだのは、監督の大きな過ちだったのではないだろうか?本当に息を呑むくらいに、トラウマにうなされる夏帆の怯えた顔は怖い。こちらまで、いつくるか、いつくるかと、不安を掻き立てられて、肝心のラブストーリーに浸るどころではなくなってしまう。

 その上、冒頭に松下奈緒と相手の青年との、一年を測る巨大砂時計を前にした邂逅の場面で、最初から紆余曲折を超えたハッピーエンドは約束されてしまっている。だから、いかにしてうまくおさまるところにおさまるかという観客の関心事を満足させるには、波瀾万丈とは言わないまでも、かなり観客の胸をわしづかみするようなドラマが不可欠なのだが、それほどエモーショナルな場面も演出もなかったように思う。

 駆け足で見た挙げ句、いきものがかりの「帰りたくなったよ」を聴くためだけに、あるいは松下奈緒の笑顔を見るためだけに、2時間もの映画につきあってしまったのかなぁと、ちょっとだけ残念だった。
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2009年12月24日

ザ・ムーン(2009年12月23日)

 息子の誕生日にポケモンのDVDを借りるついでに借りてきた。ドキュメンタリーのコーナーにさりげなく置かれているので、よっぽどのことがないと借りる人はいないかもしれない。だが、この映画は劇場公開時に「観たいなぁ」と思って忘れていた作品だった。

 「アポロ13」のロン・ハワード監督がプロデュースした作品なので、少なくとも「アポロ13」ぐらいは面白いはずと勝手に期待していた。いや、「アポロ13」を当時立ち見で観た時も、リアルタイムで事故報道をハラハラして見守った世代の僕としては、現実の凄さを伝え切れていない歯がゆさが残った。ドキュメンタリーを超える事は、いかなSFX技術が進歩しても難しいという当たり前の事を実感させた映画だった。

 当然ながら、この「ザ・ムーン」では1969年に現実に起きた〈奇跡〉をもう一度体験できるのだと思ったのだ。しかし、期待したほどには面白くない。本編を見たあとに、付録の予告編を見ると、「月に行った人々はいまだに13人しかいない。月に着陸した人(ムーンウォーカー)は9人しかいない」という魅力的なキャッチコピーが、これまた見事な映像とともに流れる。残念ながら本編では、このコピーがあまり活かされていない。

 ドキュメンタリーでもなく、事実に基づいたフィクションでもない。どちらかというと、NASAが提供した未公開映像をかき集めて、テレビ出演をOKしてくれたアポロの宇宙飛行士たちのユーモアとフィロソフィー溢れる言葉とともにコラージュした。当然ながら隠棲してしまったり宗教的な静けさを求めたりした飛行士たちの言葉は含まれない。

 編集の力で、あの1969年に起った〈奇跡〉が浮かび上がってくるとでも、この映画の監督は安易に考えていたのかもしれないが、どう考えても力不足の演出としか思えない。以前に読んだアンドリュー・スミス「月の記憶」のような、作家自身のとてつもない熱狂的な好奇心が、この映画の作者からは感じられない。
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2009年12月21日

NHKスペシャル「数学者はキノコ狩りの夢を見る〜ポアンカレ予想・100年の格闘」(2009年12月20日視聴)

 ポアンカレ予想が解けるまでの顛末を描いたドキュメンタリー。ナレーターが俳優の小倉久寛で、これは先日見た「リーマン予想」に関するドキュメンタリー「魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い〜」と全く同じだ。おそらくはスタッフも同じなのだからかもしれないが、展開まで双子と言っていいほどに似ている。

 まず難問と言われる「予想」があり、多くの数学者たちを悩ませ、少なからぬ天才数学者たちの人生を狂わせる。そして、やがては真の解決に辿り着く唯一の勝者が現れる。もちろん勝者にも苦難に満ちた人生があり、ドラマがあり、それをついに乗り越えた感動がある。となれば、「フェルマーの最終定理」や「リーマン予想」の時となんら展開が変わることがないので、定理そのものが取り替え可能な物語として新鮮味も薄れるというものだが、こと「ポアンカレ予想」に関する限りは、エンディングで読者(視聴者)の予想を大きく裏切る事になる。

 それは1時間50分の長尺のドキュメンタリーのラスト20分ぐらいで描かれることとなる。ペルリマン。旧ソビエトに生まれ、ロシアに生まれ変わってから数学者として世に出るためにアメリカ合衆国にやってきて、ついには「ポアンカレ予想」と出会う。前半では、トポロジーという革新的な数学が、従来の微積分を主流とした数学を凌駕する時代状況が描かれたのに対して、ペリルマン自身はポアンカレ予想を微積分の応用問題として取り組み、人々がトポロジーの熱からさめやらぬうちに、意表を突く形で解いてしまった。

 最後に人前で講演をした際に、誰もペルリマンのテクニックを理解できなかったというエピソードは、この「ポアンカレ予想」の歴史を彩るクライマックスとなった。

 ところが、その証明の華々しさの前後に来るはずの、人間・ペルリマン自身のドラマは、番組からは完全に欠落してしまう。なぜなら彼は数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞を辞退し、表舞台から完全に姿を消してしまったからだ。番組のタイトルは、「森でキノコ狩りをした姿を見かけた」という噂をもとにつけられた。

 彼の論文は通常のような学会誌への投稿という形ではなく、インターネットで流布される形で、静かに広まった。決して意を決して「世に問う」と言った意気込みも野心も感じられない。ただし、番組では、あれほど快活な性格だったペルリマンが、アメリカ在住時代、ちょうど「ポアンカレ予想」あるいはそれを解く鍵となる「幾何化予想」と出会った頃から人を遠ざけるようになったと、簡単に触れている。そこに僕らは、ペルリマンの見た「ポアンカレ予想」にまつわる闇を想像するしかない。
posted by アスラン at 19:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | TVダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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